参、愛ヲ喰ラウ亡者
3-1砂嵐
「糸…近くなったね」
「俺には見えてねえけどな」
そっけない返事を受け取りつつ、夕希は行く先にある「糸」を見つめた。
最初こそ頼りなく細い一筋の糸のように思えたそれは、いまでは夕希の腕ほどの太さに見えるほどまでに近づいてきた。
「ずっっっと奥にうっすら山がたくさん見えるのはわかる」
「……それは暗くて全然わかんないよ」
同じ場所を目指しているはずなのに、二人の見ているものがこうも噛み合わなくては不安になってくる。
「にしても、この砂漠はいつまで続くんだ……」
運命が不満げにそう呟くのを聞き、夕希も無言で頷いた。
傍観者の住む鉄の樹海を抜けた二人は、糸をまっすぐ目指して歩くうちに奇妙な砂漠にたどりついた。地面にくぼみが出来てしまうほどに砂の地面は分厚く、特に運命はヒールが深く埋まってしまい、かなり歩きにくそうだった。しかし一方で、風に削られたような岩肌が砂の下から露出している部分も見られる上に、細く風の侵食から取り残された残丘が、柔らかな大地に突き刺さるようにしてそびえている。
しかし最も奇妙なのは、それらの岩に混じって地蔵を模した彫刻が見られることであった。夕希たちと同じほどもある大きさのそれは、一部が砕けているものや表情がいびつに歪んでいるものもあり、ひどく不気味であった。
「誰が彫ったんだろうね、これ」
「知るか…紛らわしいもん作りやがって」
夕希が通りすがりにそっと一体の地蔵を撫でると、少年は吐き捨てるような言葉とともに、その地蔵を真っ二つに蹴り壊してしまった。
「ばっ、罰当たりだよ…!」
「うっせ、地獄にバチもクソもあるか。当てれるもんなら当ててみろっつーの」
無茶苦茶な物言いに夕希は閉口した。ちらりと背後の破壊された像を振り返ると、胸元から地面に落ちた地蔵が、砂に半分顔を埋めてこっちを向いていた。慌てて前に向き直り、心の中で誰にともなく謝罪した。
「——おい、あれが来る」
ひたすらにすみませんを心内で唱え続けていると、運命に呼びかけられた。我に返って彼が見る方向に視線を向けると、先ほどまで暗闇に糸が浮かび上がっていたはずなのに、一面が黄土色に塗りつぶされてしまったように見えなくなっていた。
砂嵐である。
「向こうの岩場でやり過ごすぞ」
言うや否や、先を急ぎ出した少年に、夕希は黙って従った。
残丘は思ったよりも大きく、そして遠かったようで、先に砂嵐に追いつかれてしまった。漸くたどりついた頃には、結局二人とも砂だらけになってしまった。
あたり一面を黄土色の粒子が吹き荒れ、何一つ見えなくなってしまった。岩の風下に身を潜めているとはいえ、完全に砂や風が防げるわけではないが、さっきよりはずいぶんましな状態だ。夕希は髪の毛に絡みついた砂を払い、ブレザーを脱いでそこに纏わりついた砂も払い落とす。ふと隣を見ると、運命が眉間にしわを寄せ、乱暴にブーツに溜まった砂を取り出していた。彼も大量に砂を被っていることに気づく。
「あの、髪の毛の砂……」
「あ?」
苛立った顔のまま睨まれ、夕希は一瞬ひるんだ。しかしブーツを両手に持ったまま砂まみれになった少年の、淡く華やかな格好も相まって、夕希の緊張はわずかにほぐれた。
「髪の砂、落とした方がいいと思って…」
「いいよもう。落とすのも結び直すのも面倒だ」
そうはいっても、やはりきになるようで、運命は乱暴に後頭部を掻いた。
「よ、よければ私が…」
「は?」
「髪も結べるし、長いと人に任せた方が早く済むし…」
と、そこまで言って夕希は急に恥ずかしくなってしまった。
「あ、えと、ごめん変に出しゃばっちゃって! 運命君が必要ないっていうなら私が口出しすることじゃないよね…!」
「……いや」
自嘲の笑みをうかべて撤回する夕希を横目に、運命は白いバラの髪飾りを一つ、外した。解けた髪束は、とろけるように彼の肩に流れる。
「どうせしばらくはここでじっとしてなきゃなんねーんだし、頼むわ」
もう片方の飾りも取り外すと、運命は夕希に背を向けてあぐらを掻いた。あっけにとられて立ち尽くす夕希に気づくと、怪訝な表情で見上げてきた。
「なんだよ、お前が言ったんだろ、早くしろよ」
「あ、うん…!」
痛かったら言ってね。一応そんな忠告をしてから、滑らかな髪の毛に手を伸ばした。梳くたびに髪の合間から、サラサラと砂がこぼれ落ちてゆく。毛先十数センチのウェーブが指先に心地よい感触をもたらし、夕希は少しだけ心が和んだ。思いの外夢中になって運命の髪をとかし続ける。だが深く絡みついた砂を取り除こうと、頭を洗うように手を動かしていると、誤って爪で引っ掻いてしまった。
「あっ、ご…」
反射的に謝ろうとした夕希だったが、肩越しに見下ろした少年は眠るように目を閉じていた。夕希が手を止めたままでいると、不思議そうに少し振り返った。
「もう止めんのか?」
「う、ううん、もう少しだけど……」
「じゃあ続けろよ」
それだけ言い放つと、運命はまた目を閉じてしまった。されるがまま、くつろいでいるようにすら思えた。夕希はまた、手を動かし始める。
少しでも心を開いてくれたのだろうか。そう思ってわずかに嬉しくなったのも束の間、夕希は傍観者との会話を思い出し、複雑な気持ちになった。
糸で転生できるのは一人だけである。その事実を運命が隠していると言われたあの時から、夕希はまだ、運命にその真偽を確かめられないでいる。きっと傍観者が嘘をついているのだろう。そう思い込みたかったが、彼がわざわざそんな嘘をつく理由もない。
そうして結局、聞く勇気もないままに、どんどん糸へと近づきつつある。
——貴様とて、あの少年の力を利用することができる。
不意に傍観者の低い声が脳裏に反芻された。一瞬手を止めてしまったが、運命に動揺を悟られたくなくてすぐに作業を再開する。
自分にはそんなことできない。たとえ隠し事をしていたとしても、自分を必要としてくれる人、自分を守ってくれるこの少年を、利用して生きようなんて思えない。
誰かを利用してまで、生きる理由もない。
「……髪、結ぶね」
またおかしな方向に思考が進みそうになったのを自覚し、夕希は無理やり考えるのをやめた。襟足の砂まで綺麗に払うと、夕希は運命の髪を半分掴んだ。風は吹いているものの、まとまりのよい髪は一定方向に流れていて、それほどやりにくくはない。
「解けないように強めに結んだんだけど…痛くない?」
片方結び終えたところでそうたずねると、少年は少し首を振ってみたり、結び目を触ったりして小さく頷いた。
「おう…悪くない」
「そっか。じゃあもう片方も結んじゃうから、もう少し待ってね」
「わかった」
運命と行動して長いこと経ってわかったことだが、彼はわがままで乱暴で自己中心的だが、決してひねくれ者ではないらしい。不機嫌な時を覗けば、彼の受け答えは年相応か、あるいはそれよりもっと幼いと思えるくらいに素直だ。
「——はい、終わったよ」
そんな彼が、自分を見捨てるつもりだなんて思いたくない。わがままで説明不足な彼のことだ。もしかしたら、自分が地獄に残ることは承知の上で、彼と一緒にいると思っているのかもしれない。
結局は都合のいいように考えたいのだとわかっていても、夕希は言葉を飲んで笑ってみせるしかなかった。膝についた砂を払い、彼の隣に腰を下ろす。
「………」
「どうしたの?」
両の髪飾りに触れる運命は何か思わしげで、遠慮がちに尋ねた。すると彼はなんだか言いにくそうに答えるのだった。
「いや…。お前を見つけてから、いろいろ変わったと思ってな。地獄に落ちてから髪なんてほとんど解かなかったし、何より俺が10年さまよっても見つけられなかった糸に、お前がいるだけでこんなに簡単に近づくことができた」
ぼそりと呟いた運命の表情はいつも通りの仏頂面だ。しかし直接的な表現こそしないものの、まるで彼なりのお礼とも思えるその言葉に、夕希は心臓を握り締められたような錯覚を覚える。
「ひとつ、聞いてもいい?」
膝を抱え俯いたまま、夕希は小さく言った。隣の少年がこちらに視線をよこす気配、そして「手短にな」と了承の意を示す声。
「運命くんは————」
本当のことを、かくしているの?
その先を、言葉にすることができなかった。
言葉を詰まらせ、躊躇した一瞬の隙の出来事だ。
「——うわっ!」
地面が大きく揺れた。夕希は思わず腹ばいになり、運命もまた立ち上がることができずに膝立ちの状態で揺れが収まるのをまった。
数秒ののち、揺れが鳴りを潜めた。いつの間にか、砂嵐も落ち着き始めている。
「…………収まった、か」
運命が警戒するように辺りを見回す。夕希はうずくまったまま、ふと自分たちが身を寄せる残丘の根元に視線が走った。さらり、と砂が根元に吸い込まれている。
「ねえ、なんかここ———」
すでに立ち上がっている運命を見上げた瞬間。
轟、と、重い音を立て、残丘が動き出した。同時に、足場がぐらりと歪むような感覚に陥る。
「やばい、早く立て!」
ぐにゃぐにゃと歪む足場にもたつきながらも、強引に立たされ、夕希は運命に半ば抱きかかえられるような形で残丘から距離をとった。ゆっくりと沈み始めた残丘はやがて加速度的に、そして大きな音を立てて、砂の中に吸い込まれていった。すっかり低くなった残丘の頂には、この砂漠で何度も見た地蔵が彫られていた。
「他の像も、全部こんな風に……?」
「——早いとこ、この砂漠抜けるぞ。思ったより厄介だ」
「うん」
二人が歩き出そうとした途端。
まず、運命がバランスを崩したように膝を折った。
「なっ!?」
驚く間もなく、足が砂に埋まった。反射的に足元に視線をよこすと、ずるずると引きずり込まれるようにして、周囲の砂とともに体が吸い込まれていく。
「おい何やってんだ早く出ろ!」
見上げると、すでに運命は流砂から逃れていた。夕希は足を抜こうともがいたが、手のひらは柔らかな砂を掴み取っただけで、少年の元へと這い上がることができない。
もうすでに脚はほとんど埋まってしまった。夕希はとっさに、運命に手を伸ばす。
「た——」
たすけて。
その一言を発する寸前、夕希は疑ってしまった。
手を伸ばしたとして、彼はこの手を握ってくれるのか。
危険を冒してくれるのか。
裏切られるくらいなら、傷つく前に手を伸ばさないほうがいい。そんな思考が脳裏を掠め、夕希は真っ直ぐに伸ばした腕を砂上に落とした。
「夕希っ!」
落としたと思った、落とそうとしたその直前。痛いほどに力強く手を掴まれる。我に返って見上げると、焦りをにじませた運命が、手にした金属棒を支えにして夕希を引き上げようとしていた。
「さだ、」
「——クソッ!」
少年の険しい表情がぐらついたかと思うと、そのまま流砂に巻き込まれてしまった。胸が砂に圧迫されて苦しい。
やがて顔まで砂が迫ってきた。夕希は恐怖で視界が暗転した。瞬く間に意識が遠のいていく。
「ふざけんな! 放すんじゃねえ!」
意識が途切れるその間際にもなお、少年が自分を引き上げようとする力を手のひらに感じた。
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