2-6昔語
少年の去った方向を見て茫然と立ち尽くす夕希。背後でざわざわと音が聞こえ、おそるおそる振り返ると、傍観者が再びぽっかりと前の開いた繭の中に戻ってきていた。
「あの…さっきはありがとうございました」
「私は何かしたかな。」
あの首のない鬼を退治してくれた。そう説明すると、傍観者は眉一つ動かさない無表情で「気にするな。」とだけ返した。
「え、ええとそれで……!」
「そう構えなくともよい。私は貴様と話がしたかっただけである。」
何故かこの男との間に沈黙ができることを恐れた夕希が、なんとか会話を続けようとすると、男の方がそれを遮った。
「あの高慢で喧しい少年がいては、ろくに会話もできぬ故にな。少々席を外してもらったまで。」
「じゃあ…さっきの音は……」
「あれは私が鉄柱を数本へし折っただけだ。なに、貴様にもあの少年にも危害は加えぬ。それに、あの少年がいては貴様とまともに会話もできぬであろう。」
なぜあの少年を信頼しているのか。吸い込まれそうな黒い瞳でじっと捉えられ、夕希は縛られたようにその場に立ちすくんでしまった。
「わっわたし、は、自分の目的がないから……」
傍観者から目を逸らすことのできない夕希は、底なし沼のような眼に射抜かれて答えるのをやめられなかった。言いたくもないのに、ごまかしてしまいたいのに、次から次へと口をついて本音が漏れる。
「単に、ひとりでいるのが怖くて、運命くんの目的と優しさにつけこんでいるだけの…本当に、どうしようもない人間だから。見捨てられるのは死ぬほど…死んでも嫌だけど、私は捨てられてもしょうがない、何もできない人間———」
「少し、落ち着くべきだ。」
「あ……」
凪いだ低い声に、夕希はようやく我を取り戻した。気まずさのあまり、うつむきスカートの裾を握りしめる。
「自らを過剰に恥じるわけは問わぬ。しかし貴様は、少なくともこの地獄では、決して無価値な存在ではない。かの少年は貴様の導を何よりも必要としている。無力を嘆くより、己の心に従え。それを咎めるものなど、この地獄にはいないのだから。」
それこそが、地獄の唯一のことわりである。血の気のない肌に、落ち窪んだ眼をした目の前の男は、しかし、何かに思いを馳せている、そんな穏やかな声色だった。
夕希はその異様な、しかし理性的にも見える男に興味が湧いた。
「あなた…鬼徒っていうんですよね。でも全然その…見た目よりも普通っていうか…なんだか悪い人に見えなくて……」
言葉にできないでいると、なにを言いたいのか察したのか、傍観者は淡々と夕希の言葉を言い換えた。
「まず少女よ、鬼徒が必ずしも悪しき存在であると思わないことだ。生きることに貪欲なのは、決して悪ではない。そして確かに、あの少年や他の亡者に比べて、私は己が生への執着を表に出すことはない。」
彼は樹海の奥を眺めているようで、あるいはもっと奥の何かを見つめているようでもあった。そして傍観者は一呼吸おいて、再び語り始めた。
「私の望みはただ一つ。この地獄を観続けることのみ」
不意に夕希に視線を合わせた傍観者の目は濁っている。しかし運命や他の亡者と同じ、獣のように何かに飢えた光を宿しているような気がして、夕希は少々たじろいだ。運命を呼ぶべきか、そんな考えが思考をかすめたが、なぜか傍観者の語りに聞き入り、声すら出なかった。
「少し、昔の話をさせてくれ。私の一週目の話だ。カシシャとして地獄に堕ちる前、私は仙人を目指す浅はかな青年であった。師を慕い山にこもり、自分が別の何かに生まれ変われると信じて疑わなかった。しかし、世は私が私以外に成ることを許してはくれない。何も成せぬまま、山の獣に襲われて死んだ。しかしそれが転機となった。」
夕希はこころなしか、傍観者の冷たい声色が弾んだ気がした。
「私は地獄に堕ちた。カシシャとして。鬼のひしめく薄闇の世界、そこに垂らされたひとすじの糸。何一つわからないままだったが、私はこの地獄に魅せられた。運も手伝いカシシャとして地獄より生まれ変わった私は、そのおぞましくも美しい様を現世に表そうとした。だが記憶とは曖昧なもので、私が肌で感じたあの地獄を、現世で再現することはできなかった。地獄を現世に再現したい。そう思い二週目の地獄を味わい転生も成し遂げたが、やはりどうにもあの美しさは絵や文などでは表現し難かった。」
「……もしかしてあなたは、」
言いかけて、夕希は口をつぐんだ。
その男は笑っていた。
爛々と目を輝かせ、心底期待に胸を踊らせるように、その血の気のない荊の突き出た顔に笑みを刻んでいた。
「そして今、私は望んで地獄にとどまっている。娘よ、私が地獄に生きる目的とは、地獄を見続けることなのだ。そのために生きている。我が鉄樹海の中で、おぞましくも尊き魂の行く末を傍観し続けるのだ。」
彼の気持ちの高ぶりを表すかのように、湖を遊泳する鉄線たちが大きくうねった。足元を見ると、こちらに向かって荊棘が這い出てきていた。
「ひ…!」
「ひとつ、貴様と同じカシシャであった誼みで助言をくれてやろう。」
顔を上げると、傍観者が間近に迫っていた。鈍色の荊棘をまとったその男は、立ち尽くす夕希に静に告げた。
「あの少年を、信じすぎぬことだ。これは亡者なら誰もが知ることだが——糸で現世に再び還ることができるのはただ一人のみ。ともに転生はできない。」
「……っ!」
心臓が、どくりと跳ねた。
そんなこと、運命は一言も。
では彼は、初めから私を———。
「糸までたどり着いた時、出し抜かれぬように気をつけよ。あれは貴様の力を利用しているが……貴様とて、あの少年の力を利用することができる。そして糸が見えているのは、娘、貴様だけだ。」
「で、でも私は、運命くんと約束を———」
「なに、せいぜい悩み、決めるといい。裏切られ、ここに留まるか、裏切り、ここに残すか。」
小さく金属の擦れる音を立てて、傍観者は再び湖の中央へとその体を戻した。湖の中をうねっていた荊棘たちも、いつのまにかなりを潜めている。
「そろそろ静にしていよう。」
傍観者がつぶやいて数秒もしないうちに、背後の樹海から錆を踏む音がした。
「時間を無駄にした。鬼なんていやしないじゃねえかよ」
樹海から、不機嫌な様子の運命が姿を現したところだった。夕希は少しだけ胸をなでおろしたが、先ほどの傍観者の言葉を思い出し、少年の顔をまっすぐに見ることができなかった。
「ここの鉄柱は錆びてもろくなっているものも多い。おそらく立て続けに周囲の鉄柱を巻き込み、崩落したのだろう。」
しゃあしゃあと嘘を紡ぐ傍観者に、運命は疑念の視線をよこした。しかし夕希を横目でみやり、彼が約束通り危害を加えなかったのだとわかると、くるりと身を翻した。
「もうお前に用はない。来い夕希」
「あ…うん」
「時に、若き二人よ。」
呼び止められ、夕希は振り返った。運命もまた、顔はまっすぐに前を向いたままであったが、足を止めた。
「とある鬼徒に気をつけよ。カシシャの存在を確信しているようである故、おそらく周回者。かの者が志半ばに地獄で果てているとは思えぬ。おそらくまだ、カシシャを探しているだろう。」
「………フン、ご忠告どうも」
結局、一度も彼を見ることはなく、運命は再び歩み始めた。夕希もそれを追う。
「娘よ、貴様も気を付けよ。」
その声にちらりと振り返ると、繭の中の男がじっとこちらを捉えていた。彫りが深く、影のさした表情は読み取れない。
夕希は傍観者から目をそらし、運命の背を追った。まっすぐに歩みを進める少年は、こちらを気にする様子は微塵もない。俯き、夕希はただ彼の後を追う自分の足を見つめた。
「おい」
不意に運命が振り返り、夕希は少しだけ表情を明るくして顔を上げた。
「あっ…! うん、どうしたの?」
「後ろ歩くなっつったろ。死なれちゃ困るんだよ」
「………ごめんなさい」
夕希は静に歩を速め、彼の隣に並んだ。運命はまた、前を向いて再び黙々と歩き続ける。
胸にぽっかりと穴が開いたような感覚を感じ、夕希はぎゅっとシャツを握りしめた。
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