2-5傍観者

 彼は、なぜ生きているのか不思議なほどに、異様で不気味だった。


 その土気色の肌は、ほとんど灰色といってもいいほどに生気がない。痩せこけた頰にかかる前髪は湿気に濡れてぬらりとした艶がある。かつて衣服だったであろう布切れは棘に引っかかってずたずたに裂けている。男はほぼ何も来ていないに等しい姿で、両腕を繭から伸びた鉄の荊棘に封じられていた。腰から下は同じ荊棘が幾重にも重なり、どうなっているのかすら解らない。


 そしてなにより、荊棘に貫かれている男の姿から、夕希は目をそらすことができなかった。


 胴だけではない。首、頰、頭。貫かれた部分は腐りかけているのか、赤黒く膿んでいる。


 恐ろしくて声も出ない夕希。隣でその男を見据える運命の表情もまた、動揺しているように見えた。


「…一応聞く。お前は誰だ」

 ゆっくりと、それだけを尋ねた運命に、男は告げた。


「私はただ、傍観する者。」


「はっ、まんま傍観者ってわけね。俺は——」

「必要ない。」

「ぁあ?」


 静かに、強く遮られ、運命は怪訝な面持ちになった。男は無表情で述べた。


「私も、貴様も、ここではただの亡者。一度死んだ名に興味はない。」


 ピクリと眉を痙攣させた少年。夕希はいつ彼が感情を爆発させるのかと、ひやひやしながら二人を見守った。運命は顔にこそ苛立ちをちらつかせたが、決して荒ぶることなく、感情を抑えるように声を低くして言い放った。


「…必要ないなら別に名乗らねえよ。俺はただ、あんたに聞きたいことがあってここまで来たんだ。力ずくでも答えてもらう」

「……力に訴える必要はない。私は貴様らの行く先を見届ける者。道を阻むような野暮はすまい。」

「いちいち言い方が回りくどいやつだな。答える気があるってことでいいのか?」

「無論。というのも、貴様らはとてもとても興味深い。特に、そこの娘よ。」


「へっ?」


 唐突にこちらに視線を向けられ、夕希は反射的に運命のそばに寄った。生気のない目が、じっと夕希を見つめている。


「五体満足のカシシャを見るのは久々だ。私はその幸運の先に、とても興味がある。」

「なっ、え……」


 まだ、夕希がカシシャであることは言っていない。


 困惑して運命を見る。少年の横顔は動揺しているようではあったが、彼の口の端はかすかに吊り上っている。


「は、よく知ってるな……元カシシャの周回者ってのもデマじゃなさそうだ」

「周回者、て……」

 話についてこれない夕希に先に気付いたのは、傍観者の方だった。


「己が記憶を残したまま転生した亡者が、再び強い意志のもと地獄に落ちてくることもある。地獄は一度きりなどと決まってはいない。未練への執着、欲望の渇きが、人を何度でも地獄へ落とす。」

「つまり…あなたは、最初に堕ちた時の記憶を持ったまま、なんども生まれ変わってるってこと?」

「現世には三度、生を持った。周回者という言葉になぞらえるならば、この地獄が3周目と言うべきか。1周目は、貴様と同じ糸を視得る存在として。」

「……」


 夕希は絶句した。


 一度生まれかわることができたにもかかわらず、またこんなところに堕ちてくるなんて狂っている。そんな言葉など、彼にとっては今更なのだろう。


 何も言えないまま傍観者から目を離せないでいると、彼は夕希から目をそらし、運命に視線を戻した。複数の有刺鉄線がが蛇のごとく、蒸気する湖を遊泳している。


「して、私に尋ねごととは何か、少年。」

「まず、糸について教えろ。糸とはどういう存在なのか、たどり着いたとしてどうやって生まれかわるのか。カシシャだったなら知ってるだろ」


 荊棘に貫かれなお生きているその男に臆することなく、運命はまるで男には答える義務があるかのような調子で、高慢に尋ねた。その様子に興味をそそられたのか、傍観者はわずかに口の端を緩めた。


「恐れを隠すのではなく、真に恐れを抱かない者に会うのは久しい。貴様もまたこの地獄において稀有な存在とみなした。」

「いいから早く教えろよ」


 一人感心している傍観者に、苛立ち隠そうともせずに急かす運命。すると傍観者はその不気味な微笑を湛えたまま、頭上の曇天を見上げた。


「よい、教えてやろう。糸とは、正確に表現するならば地獄と天を結ぶ〈光の柱〉のことである。気の遠くなる程に大きく、白く、輝かしい柱である。」


 空を見上げる傍観者の声色は、どこか懐かしそうであった。


「天へと突き上げているのか、地へと降ろされているのか。それは私にもわからない。だがしかし、ひとたびその光の中に足を踏み入れたならば、糸が再び亡者を現世へと導くのだ。少年、貴様はともかく、そこの娘はいずれ私の言うことに納得する時が来よう。」


「は、はぁ……」

 あいにく今は鉄の樹海に阻まれて、その姿を目にすることはできない。だが少なくとも樹海に入る前までは、その光の柱とやらは今にも切れそうなほど細くしか見えなかった。随分と遠くにあることはわかっていたが、それほど大きな光の柱だというのならば、まだまだ道のりは長そうである。夕希は途方にくれて方を落とした。


 その一方で、傍観者は曇天を見上げるのをやめ、運命に問いかけた。


「貴様の知りたかった糸についてはこんなものである。問いはこれだけか。」

「いや、まだある」


 そして運命は、少しだけ言葉を止めた。彼の目がいつもに増して鋭く光る。


鬼徒おにとになるには、どうすればいい」

「………ほう。」


 傍観者の表情は動かない。だが漏れでた感嘆の声からは、面白がるような響きがうかがえた。


「鬼徒の存在を知る者が、ましてその力を得ようとする者が、まだ地獄にも存在していたとは。」

「会ったことはねえ。糸やカシシャが噂だとすれば、鬼徒は伝説か神話…ほとんどホラ話だ」

 だがお前を見て確信した。傍観者を見据える運命は、口元だけで笑っていた。


「てめえ、鬼徒だろ」


 対する傍観者も、くつくつと笑い声を立てる。


「いかにも。私は欲望に身を焦がした渇望の徒でありながら、自らの鬼を飼いならした。」


 このまま置いてけぼりをくらってしまいそうなのを感じ、夕希は運命の袖を引っ張った。

「運命くん」

「なんだ」

「話についていけないんだけど……その、そろそろ教えて欲しいなって思って……」


 目を細め、無言で口元を歪ませた運命は、あからさまに面倒臭そうである。しかしさすがの夕希も、いい加減無知のままでいるわけにはいかない。両者とも引かずに押し黙っていると、傍観者が口火を切った。


「カシシャが自らの無知に抱く恐怖は私もよく知る。娘よ、鬼徒について教えてやろう。それに少年、貴様も知らぬことはまだあろう。いま少し、私の語りに耳を傾けてみるがよい。」

「……けっ、手短にしろよ」


 観念した運命が、諦めてそっぽを向いた。夕希は驚いて傍観者を見る。見た目ほど恐ろしい人物ではないのかもしれない。そう感じた。


「時に娘よ、貴様は鬼についてどこまで知っている?」

「あ、え、じ、地獄の生き物、っていうか……恐ろしい化け物で……」

 そこまで言って、夕希は樹海で遭遇した亡者たちの言っていたことを思い出した。

「襲ってきた亡者が、私のことを“鬼になりかけ”って……それって」


 夕希の言葉に、傍観者は小さく頷いた。

「いかにも。鬼とは、亡者のなれの果てである。地獄に充てられ自我を失い、生への執着のみが膨れ上がった時、人は人ならざる悪鬼と化す。鬼徒とはすなわち、生への渇望に身を焼きながらも、自我を保っていられた稀有な存在のことよ。」


「方法は」

 運命が、心なしか身を乗り出し、急いて話を促した。傍観者は温度を感じさせない表情で少年を見つめた。すると彼に絡みついている荊棘が急に伸び始め、一本の柱をかたどった。その頂上にいる傍観者は、見上げる夕希たちを見下ろして言うのだった。


「さあな。鬼徒になろうとするのではない。生きたい、生きねばならぬという意思が、地獄ではすべての力の源となっている。その自我を飲み込むほどの欲にまみれ、生を望んだ先、狂気の崖の淵に立たされた者が、尚も意志という糸を手放さなかった時、人は自らの鬼を飼いならすことができるのであろう。」


 もっとも、貴様にそれだけの強い自我があるのかは甚だ疑問であるが。挑発するように付け加えられたその一言に、ただでさえ焦れて苛立っていた運命がついに激昂した。


「バカにするのもいい加減に————!」

 運命が手に持った金属棒を傍観者めがけて振りかぶった時だった。

 背後の樹海から、何かがけたたましいい音を立てて崩れた。湖面が大きく乱れる。


「…鬼が入ってきたようだ。こちらへ近づいてきている。」

「さっきみたいにてめえが八つ裂きにすりゃいいだろ」


 しかし傍観者はこちらを見下ろすとかぶりを振った。

「私はただ傍観するのみ。私の気まぐれが2度あると思わぬことだ。だが、ふむ、そうだな。ここで娘の安全を保障しよう。」

「ふざけんな! おい夕希、行くぞ——」

「この狭く逃げ場のない樹海で、娘を守りながら動けるとは思えんが。私は先ほどのように手助けをするとは限らない。」


 無情にもそんなことを宣う傍観者を睨み上げ、運命は奥歯を噛み締めた。みし、と奇妙な音が聞こえ、夕希は視線を落とした。見ると運命の手持ちの棒に、彼の指が食い込むのが見えた。夕希は無意識に、少しだけ少年から距離を取る。


「おいっ!」

「はいっ!」


 怒った調子のまま呼びかけられ、返事もつい大きな声になってしまった。

「少しでもだ! 少しでも危険だと思ったら全力で叫べ、いいな!」

「はっはい!」


 運命はくるりと湖から背を向け、栗色の髪の毛がふわりと弧を描いたかと思うと、彼は高く跳躍し、鉄柱を伝って樹海の奥に消えていった。

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