2-2空洞

 一人で入っているときは広く感じたうろの中は、やはり二人入るとすこし窮屈であった。夕希ゆきは膝を抱え、奥で身を小さくして座った。一方で、運命さだめは胡座をかいてくつろいでいる。


「……なんで見つかったんだ」

 しばらくの妙な沈黙ののち、最初に口を開いたのは運命だった。うつむいていた夕希は顔を上げる。ピンクと黒のミニドレスは、薄明かりの中でほんのり浮いて見えた。はっきりした目鼻立ちは彼の顔に濃い影を形作り、それが陶器のような白い肌を強調していた。


「この霧だ。黙って隠れてりゃ見つかるわけねぇ」

「ごめんさない…ちょっと息苦しくて、外に出たら…」

「暑くて湿気が多いからそう感じるだけだ。ここじゃ殺されない限り死なねえよ。……残念ながら、苦しいことにはかわりないけどな」


 忌々しそうにため息をつく運命は、骨に響いたのか、少しだけ眉間の皺を深くした。思わず身を乗り出して様子を見ようとすると、彼はそれを目で制した。


「ほんとに、ごめんなさい……怪我もしてるのに、足引っ張っちゃって」

 夕希は再び膝を抱えてうずくまった。申し訳なさで運命の顔が見られない。怒っているだろうか、呆れているだろうか。それとも、そもそも興味なんて持っていないだろうか。


「おい」


 呼ばれて、ちらりと少年を見やる。彼の表情は影が差してよくわからなかった。しかしその声色は落ち着いていて、不思議と安心感を覚える。

「起きたことは仕方ないし、何度謝られても俺が転生できるわけじゃないんだ。謝るのは一回だけにしろ。それに」


 運命は空の外に目を向けた。長い睫毛が目元に影を落とす。

「出たいって思って出たんだろ。やりたいことやんのはお前の勝手だし、俺だってそうだ。……それが間違いでもな」


 だから別に、怒っているわけじゃない。ぶっきらぼうにそう付け加えた運命は、顔を隠すようにそっぽを向いた。


「ありがとう」


 謝罪よりも前に、その言葉が口をついて出てきた。夕希自身それに驚いていると、目の前の少年もまた、こっちを向いて目を丸くしている。


「あ、あの……期待はずれなことして怒られなかったのって、慣れてなくて、それで……的外れだったよね!」

「……別に何も言ってねえだろ……」


 夕希があまりにも慌てるので、運命は少々困惑したようだった。夕希は急に恥ずかしくなって顔を赤くした。ごまかすように話題をそらす。


「あ、あの人たちってどうなったの?」

「どの」

「さっき運命くんが倒した人たち……。一度死んでここに来て、ここでも死んだらどうなるの? さっきも、殺されない限り死なないって言ってたけど……殺されたら私たちはどうなるのか、運命くんは知ってるの?」


 なんとなく答えは見えていたが、聞かずにはいられなかった。質問すれば嫌そうな顔しかしたことのなかった運命だったが、さすがにじっとしている時くらいは答えてくれた。


「わかってるのは、身体は地獄を構成する一部になり、その魂は二度と生まれ変わることはできないってことだけだ」

「それも、最初からわかってたことの一つなの?」

「まあな。ここで死ねば二度と生まれ変われない。それが分かってるから、亡者は転生するチャンスが来るまで徒党を組んで、鬼や他の亡者たちから身を守ることが多い」

「運命くんは、誰かと手を組むことはしてこなかったの?」


 ふと気になったことを質問すると、運命はくだらなさそうに鼻を鳴らした。何か馬鹿な質問をしただろうか、と夕希は少しうろたえる。


「結局自分のことしか考えてないんだ。一緒に行動したって仲間割れするのは目に見えてる。実際、仲間内で殺しあった噂しか聞かないからな。俺は鬼からだって自分の身を守れる。今までだってずっとそうしてきた」


 言い切った運命は、確かに数人がかりの男たちを圧倒するほどに強かった。自分の身どころか、今は夕希を守りながら行動している。地獄では、見た目だけで強さを全く推し量れないことはなんとなく分かってきた。しかしそれでも、彼がどうしてそれほどまでに他の亡者と一線を画す身体能力を持っているのか、夕希は不思議に思った。


「そういえば、お前が死んだ年って何年だ」

「え……と、2019年」

「……なるほどな」

「どうかした?」

 彼が思わしげに俯いたので、夕希は少しだけ不安になった。しかし運命はことも無げに言った。


「別に。俺が死んで10年くらい経ってたって分かっただけだよ」

「10年も…ひとりでここにいたの?」

「地獄と向こうで時間の流れが同じならな。長いこと彷徨ってる自覚はあるけど。亡者の中には何十年何百年彷徨い続ける奴もいるらしいし、別に大したことじゃない」


 1日の区切りすら曖昧なこの地で、永遠とも思える時間を過ごす者たちがいる。死ぬくらいなら、ここで永遠を過ごすことを選ぶ者たちがいる。


 そうまでして、生きたいと思える者たちがいる。


「…………羨ましい」

 夕希はつい、そうこぼしてしまった。はっと我に返り、すぐに付け足す。


「地獄が羨ましいとか、その、えっと、バカにしてるとか本当にそういうんじゃなくて——」

「落ち着けよ。わかるように話せ」


 少し苛立たしさを含んだ声で促され、夕希は一瞬凍りついたのち、俯いてゆっくりと話し始めた。


「……私ってね、自分でも呆れちゃうくらい中身がないの。何かに打ち込めたこともないし、誰かと深く関わったこともない。でも、人並みに認められたくて周りにいい顔ばっかしてる、外面だけの空っぽな人間なの」


 死ぬのは怖かった。今でも、他の亡者たちやあの鬼と呼ばれる化け物を目の当たりにするたびに、恐怖で足がすくむ。しかし、死を恐れる自分とは別に、どこか自分の存在に対して冷めた自分がいる。


「刺された時、すごく痛くて怖かった。でも泣いてくれる友達を見て、まあいいかなって思ってしまったの。……だから、どうしても生きたいって、もう一度やり直したいって強く思えるあの人たちが、少しだけ羨ましくなったの」


 自嘲を込めて笑ってみせる夕希。運命はその疲れたような顔をまじまじと見ていたが、やがて飽きたように目をそらした。


「お前がどういう人間だろうとどうだっていい。今のお前は俺を糸に案内するために俺といるんだろ。俺が糸にたどり着いた時、特に生きたいと思えなかったら、俺がきっちり息の根止めてやる」


 だからそれまでは、お前は生きてなきゃいけないんだよ。彼が冗談交じりに励ましているのか、本気でそう思っているのか判らない。


「……ありがとう」


 それでも夕希は、仏頂面で吐き捨てた少年に笑いかける。


「あ?」

 運命は礼を言われたことがよっぽど意外だったのか、奇妙なものでも見るかのように、微笑む夕希を横目で見遣った。夕希は彼に「なんとなく。気にしないで」とだけ告げる。まだ訝しげな運命の横顔を眺め、夕希は膝をきつく抱えた。


 運命の傲慢なその攻撃的な口調にはまだ困惑してしまうことが多い。だがその何に対しても言いきってしまえる強さに惹かれ、尊敬していることも事実だ。夕希は確かに、運命を糸まで導くことが自分の生きる目的だと強く思える。


 生まれて初めてのその感情が、死後に芽生えるとはなんとも皮肉なことではあるが。


 ただ今は、この少年のそばにいると安心できるのだ。


「ハッ、そうかよ」 


 運命は馬鹿らしいとでも言わんばかりに片眉を吊り上げてみせた。そして彼はおもむろに膝を折って横たわった。

「さ、運命くん!」


 夕希はどこか体調でも悪いのかと不安になったが、目を閉じる彼の表情が穏やかなのを見て胸をなでおろした。運命は片目だけ開けて夕希を睨み上げると、再び瞼を閉じた。


「うるせぇな、少し寝るだけだ。何かあったら呼べ」


 どうせ言われる前に起きるだろうけど。小さく呟いたのを最後に、運命は静かになってしまった。夕希はすぐ隣にある運命の横顔をまじまじと見つめる。起きている時でも十分すぎるほど美人だが、こうして眠っている姿はとても異性には見えない。濃くまっすぐな睫毛は曇り一つない肌に長い影を落とし、錆びた砂の上に流れる髪は、薄明かりにほんのり艶めく。


 夕希はふと、彼の髪の毛は地毛なのか、それともウィッグか何かなのか、どうでもいい疑問を抱いた。そして今更ながら改めて、彼はなぜこんな格好をしているのだろう、と気になった。


 ——女の子になりたいわけじゃなさそうだけど……


 それだけは、彼の口調や態度、振る舞いからなんとなく感じられる。性別を疑われたことに対して機嫌を悪くしていたことからも、そう確信できる。


 ではどうして、彼はこの姿で地獄に存在しているのだろうか。


 夕希は、運命が亡者としてここに落ちてきた経緯を知らない。なんとなく、知ろうとしてはいけないのだと思っているし、聞いたところで彼は答えてくれないだろう。


 だがそう自分に言い聞かせるほど、尋ねて嫌われたらどうしようという不安がよぎる一方で、何かに強く惹かれる快さも感じる。初めて抱くその感覚に、夕希は嬉しいような、戸惑うような、複雑な気持ちになった。


 もう少し、仲良くなれたら話してくれるだろうか。


 そんなことを考えながら、眠る少年をただ見ていた。

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