幕間
幼キ記憶
「なんで男のくせに自分のこと“あたし”って言ってんの!?」
母親が日本人だったこともあり、日本語はかなりできると思っていた。だから転入した小学校でそう指摘された時、とても驚いてしまった。
「あ、あの……」
「こーらっ! アカザキくんはイギリスから引っ越してきたばかりなの! からかってはいけません!」
先生の注意を皮切りに、女の子たちが便乗して「そうよ!」「みんなで日本語教えたらいいじゃん!」と質問をした男の子を責めた。
「はいはいみんな静かに! ———じゃあアカザキくん、一番後ろの席に座って」
みんなが奇異の眼差しを向けているのがわかる。特に女の子の何人かは、こっちを横目で見ながらくすくす笑いあっている。なんとなく居心地が悪い。
「はーい、新しいお友達も増えたところで、みんなはいよいよ5年生になるわけだけど———」
よく響く先生の声を背にして、自分の与えられた席に向かう。前に座っているのは、先ほど問いかけてきた子だった。
*
「さっきみんなの前で聞いたのは…俺が悪かったと思うけどさ」
日本語での授業も身構えていたよりは難なく受けられたな、と思いつつ、2限目が終わった。例の彼は体ごと振り向いて椅子に跨ると、そんな風に話を切り出してきた。
「ええと、君は…」
「あ、俺? 名前は貴弘だけど、タカでいいよ」
短く名乗ったのち、「で、さっきのことだけど」と彼は話を戻した。
「でもやっぱほら、なんであたしって言ってるのかきになるじゃん? 日本語ペラペラなのに、なんでそれだけオカシイわけ?」
「で、でも、ママもお姉ちゃんもみんなあたしだよ」
「お前のかーさんもねーちゃんも女だからだよ」
あたしっていうのは女の喋り方だぞ! と告げたタカの顔は得意げだ。
「男は“俺”か“僕”っていうのが普通。でも、僕はなんかビミョーって感じだから、ほとんどの奴は俺ってゆーけどな」
「俺……」
「そうそれ! お前イケメンなんだからもっと男っぽくすりゃあいいのに、格好もちょっとおぼっちゃまって感じじゃね?」
自分の着ている衣服を眺めてみる。まあ確かに、周りの男の子と比べるとかっこいいとは言えない。
「そうかなあ……ちゃんと“男の服”なんだけど」
「喋り方ももっと格好良くすりゃいいじゃん! 一緒に遊んでたらそのうち覚えるって!」
からっとした笑顔を見せるタカは、父親以外で初めてこうなりたいと思える人物だった。
*
「母さん、ただいま!」
転入初日は、さっそくタカと他の男子達と遊んで帰ってきた。周りと比べると少々浮いている大きな家が、日本での我が家である。母に学校のことを報告しようと、一階奥の書斎へと駆ける。
「あら、おかえり」
書斎で仕事をしていた母は、パソコンから目を離して微笑みかけてくれた。しかし眼鏡を外してこちらをまじまじと観察すると、やがて呆れたような表情をした。
「か、母さん、俺学校で……」
「帰ってきたまんまじゃない。着替えに行きましょ」
話に耳を傾けることなくそ手を引く母は、まっすぐに子供部屋へ向かった。
子供部屋は白を基調とした可愛らしい家具で統一されており、ほんのりと甘い花の香りがした。
「母さん! 今日学校で友達に———」
「話なら着替えてから聞くわ、サダメ」
言うやいなや、クローゼットから服を取り出す母。しかしそのどれも少年が着るものではなく、フリルやレースがふんだんにあしらわれたワンピースやブラウス、スカートばかりだった。思わず言葉を飲んだが、自分の服に手をかけようとする母の手を握り、意を決して口を開いた。
「母さん、俺これからは———」
その途端、母の表情が凍りついた。その目があまりにも恐ろしく見開かれていたので、反射的に言葉を飲み込んだ。爪が食い込むほど強く肩を掴まれる。
「ちょっと! どこでそんな言葉遣い覚えたのっ!!!」
耳が裂けるような剣幕に、肩をすくめた。いつもの穏やかで優しい母の表情は見られない。しまった、と思ったがもう遅かった。ガクガクと肩を揺すられ、視界がぐらつく。
「俺って何!? どこでそんな汚い言葉覚えたの! 母さんじゃなくてママでしょ!?」
「か、母さ…」
「マ!マ!」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい、ママ! あたしって言うから!」
泣きながら謝ると、母はようやく肩を離してくれた。そして壊れ物でも扱うような手つきでほおに転がり落ちた雫を拭ってくれた。
「わかればいいのよ。せっかく可愛く生まれたんだから、お姉ちゃんのぶんまでたっぷりおしゃれしなきゃね」
「うん……。お姉ちゃんは?」
「まだ病院よ。もう少ししたら、サダメと同じ学校に通えるわ。……ほら着替えて。恥ずかしいならママ、リビングで待ってるから、可愛い姿を見せてちょうだい」
母が背中越しにドアを閉めたのを確認してから、服に袖を通した。どれもこれも淡くてふんわりしたデザインとは裏腹に、窮屈で重たい。また涙が出そうになったが、タカや他の男の子のようになりたくて、必死でこらえた。
*
着替えが終わってリビングへ向かうと、母はソファでくつろいでいた。こちらに気づくと、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「まぁまぁさすが私の子供! もう〜〜サダメかわいい!」
どうして男にうまれちゃったのかしら。と本気で哀れんでいるような声色でつぶやかれ、内心うんざりした。
「もったいないわ……こんなに可愛いのも今の内だけだなんて。男の子だなんて本当にかわいそう……」
きつく抱きしめられても、これっぽっちも嬉しくない。
ただ、この人が時折見せる恐ろしい顔や声が、脳裏に焼き付いて離れない。
——いつか大人になってこの人から離れる時、そのときは絶対に自由に生きよう。
それまでは、どんなに嫌でも、気持ち悪くても、耐えよう。
忌々しい服の裾を握りしめ、静かにそう決心した。
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