第6話 身分証明書
脱衣室兼洗面所。
風呂から上がった里織は現在自身の胸を隠す特別可愛くもなく派手でもない。かといってダサいわけでもない、そういう極めて無難な下着をカメラがあるのを改めて確認したのにもかかわらずぺたぺた触っていた。
(……やっぱりぴったりだ。バストのサイズ教えてないのに)
何故だか知らないが、何度確認してもサイズが合っていた。
(もしかして、ついでに測られた?)
里織は自分が着替えさせられたことを思い出し、一つの可能性を導きだす。確証はないため憶測でしかないが、もしかしたら着替えさせられた際サイズを測られたのではないか、と。
そうでなければ後は魔法などの不思議な力で測定されたか、あるいは下着自体に何らかの秘密が隠されているかだが、こちらはどちらも不思議な力が存在することを前提に考えなければならないのでとりあえず除外する。
(うぅ。もしも測られたなら恥ずかしすぎるよ)
仮に体を拭かれサイズを測られ着替えさせられるの3コンボを決められたのならば、その恥ずかしさは天井知らずである。はっきり言って今日ほど顔から火がでる思いを連続して体験したことはない。
(……と、とにかく、着替えよ)
そんな恥ずかしさを振り払うようにそそくさ着替えを行う里織。
しかし着替え終えた里織はすぐにリビングダイニングに戻るようなことはしない。
(着替えたけど……出たらどこかに連れてかれるんだよね……)
むしろなんてことはない扉に行く手を阻まれていた。
まるで重量級の門を目前にしたような重圧感と威圧感。
心境としてはあたかも数日ズル休みした後の教室の扉の前に立たされたような感覚だ。
……。
要するに、開けるのが嫌で開けられないということである。
(……流石に夜遅くなれば出掛けないかな? ここで時間稼ぎを……)
「里織、出た~?」
「あ、はい……あ」
里織は扉越しの問いかけに反射的に返事を返す。正確には返してしまう。
姑息な手段を講じ難局を乗り切ろうとした里織の目論見は見事に失敗に終わったのであった。
†††
リビングダイニング。
(……いつ連れてかれるんだろ……)
深藍に促されるままソファーに身を沈めた里織の今の心境を例えるならば、断頭台に固定された囚人の気分というのが適切だろうか。
既にやれることなどない。回避する術などない。ひたすらにギロチンが落とされるのを。来るその時が来るのをただただ怯えながら待つばかり。
「あ、そうそう。さっきはお風呂上がったら出かけるって言ったけどやっぱり出かけるのは明日にしよっか。外も暗くなってきてるし、なにより里織、歩き疲れてるでしょ?」
だからこそ。そんな沈鬱な心持ちだったからこそ。華林という名の狐とじゃれる深藍から放たれたその思いがけない朗報に俯いていた里織は勢いよく顔を上げた。
別に猶予が僅かに伸びただけでなんら事態が好転していないことはわかっている。しかしそれでもその提案は里織にとっては歓喜雀躍するような願ってもないものであった。
「あ、はい。そっちの方が助かります」
ホッと胸を撫で下ろしながら即座に同意の旨を伝える里織。
その声色は心なし明るく、顔の血色もどことなく良くなっている。
「だよね。無理は禁物だからね。今日はゆっくりまったりして案内は明日……あ、そうだ。渡すの忘れてた。はいこれ、里織の身分証明書」
「……え? 身分証明、書……?」
深藍はなにもない場所から四角いカードのような物を取り出す。
それを手渡された里織は初めて目撃する頂上の現象に思わず目を見開くが、その物体がなんなのか視認するとより一層目を見開いた。
それは名前と国民番号以外に記載する欄がなく、写真の枠にいたっては全身を映した物を貼る予定なのか縦長という、里織の知る物より遥かに簡易かつ見慣れない物であったが、見た感じそれは正しく身分証明書で。
「……どうして、私の名前……」
驚くべきはその身分証明書の名前の欄には自分のフルネームが書かれていることだ。
写真は取っていないのかいまはまだ貼られていないが、それでも苗字と名前が同じでそれを自分に渡してきたということは間違いなくこれは自分の……
「……なんで、これ……え? 本当に私、の……?」
予想だにしない事態に当惑する里織に深藍は説明する。
「実はさ、国に入れる時に色々精査させてもらったんだよね。国防の観点からいって流石に身元不明者を入国させるのは不味いからさ。まぁといっても魔法で記憶覗かせてもらっただけだけど」
「で、その際に里織が和歌月の国民でないばかりか異世界から来たことが判明。けど事情がわかっても流石に異世界に送り返す方法はこの国にはないからさ。立会人でもあった
まぁでも国のためとはいえ勝手に記憶覗いちゃってごめんね、とそれまで滔々と語っていた深藍は一区切りついたのか里織に手を合わせ謝罪する。
対して謝罪された里織はきょとんと。手を合わせ頭を下げる深藍を見つめる瞳はただただ無意味に揺れている。
正直、どう反応すればいいかわらないのだ。
それは科学の世界で生きてきた里織にとっては極々自然の反応である。むしろ勝手に記憶を覗いたと言われてどう反応しろというのだ。
きっといくところまでいけば科学でも機械を使い人の記憶を出力することは可能になるのだろうが、生憎里織の故郷の科学はそこまで発展していない。記憶を読み取るなんてそれこそFSの。創作の世界の話だ。
有り体にいって、現実味がないのだ。いや、異世界に飛ばされてる時点で今更かもしれないが……それでもやはり記憶を読まれるなんてのは現実味も実感も欠ける事象なわけで。
(……そういえば、30年前に元の世界でも神の裁きが起きたんだよね?)
ふと、元の世界でも頂上的な事件が起きたらしいことを思い出す。
自分が産まれる8年前に世界的失踪事件が勃発し、それ以降大勢の者はある行為……男による性的暴行や行き過ぎた肉体的暴行を加えることに凄まじい憎悪を抱くようになって法改正までなされることになったとか。
(……私、そんなことないんだけどな……)
生まれてからずっと性的暴行及び行き過ぎた肉体的暴行は憎むべき行為と教育を受けてきたので、確かにそれらは殺しよりもイケないことだと認識しているが……それでも憎悪と呼ぶほどのものではない気がする。
(……やっぱり、私……おかしいのかな……?)
思えばそんなところも自分は他の者達と違っていた。
大勢の者が当たり前にできることができないばかりか、大勢の者が宿して当たり前の感情を宿すことすらできない。これを欠陥品と言わずなんと呼ぶ。やはり自分は出来損ないの異常者なのかもしれない。
「えっと、里織? なにか言ってほしいなぁなんて」
「え? あ、すみません」
と、己を卑下し始めた里織の意識はそんな深藍の言葉で現実に舞い戻る。
見れば深藍は頬をぽりぽり掻いていて、気まずそうな顔をしている。
「あ、いや、謝ってるのに謝り返されると決まりが悪いというかなんというか。……再度言うけど、勝手に記憶覗いてごめんね?」
「あ、いえ。それは、はい。仕方ないことだと思うので」
身元不明者を入国させたくない。
それは当然の感覚だと思う。なので深藍達の行為を咎めようとは微塵も思わない。むしろそのおかげで面倒臭い諸々が既に済んだのだから感謝の念すら覚える。
(……? あれ? でもだとしたらどうして……)
ふと、 疑問を覚える。
記憶を見たのだとしたら食事の際の質問の数々はなんだったのだろう、と。
「ん? どうかした?」
「……あ、いえ。なんでもないです」
しかし疑問に思ったからといって質問できるかというとそうではない。
質問したら迷惑がられるかもしれない。一々そんなことを聞くなと気分を害するかもしれない。そんなかもしれないを考え質問一つまともにできない者も世の中にはいるのだ。
(……て、あれ? 記憶を見られたってことはつまり……ヒキニートだってことがバレたんじゃ……)
さぁと一気に血の気が引いた。
ばくばく発作でも起きたのかと思うほど動悸が激しくなる。
じわぁと精神的発汗が起きて嫌な汗が滲み出してくる。
出来損ない。役立たず。欠陥品。息する粗大ごみ。
それら評価は自ら認めることではあるが……それを他人に知られるのは。知られそういう眼で見られるというのは豆腐メンタルには耐えられることではないのだ。
「もう。だから大丈夫だって」
ふわりと優しく甘い香りが鼻腔を擽り、全身が温もりに包まれる。
瞬間、底無し沼に沈むようにどこまでも沈降しそうになる意識が再度急浮上し、混濁しそうだった思考も平静な状態へ切り替わる。
見れば深藍に昼間のように抱き締められていた。
「あたしは里織のことそういう眼で見たりしないからさ。安心していいよ」
深藍はぽんぽんと慰撫するような手付きで背中を優しく叩きながらあたかも泣きじゃくる子供をあやす大人のような穏やかな声音で語りかける。
「頭が悪い? 記憶力が悪い? 取り柄がない? 自虐的? 引きこもってた? 人の目が異常なほど気になる? 豆腐メンタル? 大丈夫大丈夫。あたしはそういうの一切気にしないから安心していいよ」
「それに言ったよね。あたしも同じだって。だからさ、あたしの前では神経を無駄に尖らせることないよ。里織を傷付けるようなことはしないから、ね?」
晴れやかな見惚れる笑顔。
心の底から自分を慮るような。労るような声調。
相手の嘘を見抜くスキルなんてものを持ち合わせてるわけでもない里織でも、不思議とこの時ばかりはそれが深藍の本心であることがなんとなく理解できて。
(……温かい……)
そのいつまでもずぶずぶ浸かっていたくなる温もりとそこから齎される包み込むような安心感に誘われるように、いまだ疲れが抜けきっていない里織の瞼は次第に閉じ始め意識は微睡み始める。
聞きたいことはある。
どうして出会って間もない自分にそんなに優しくしてくれるのか、と。
(あ……ダメだこれ……物凄く眠……)
だが、その質問を投げかけることは叶わない。
何故ならば既に里織の意識は抗い難いほどの心地好さに持っていかれてるのだから。
「……寝ちゃった。運んであげなきゃね。華林、行くよ」
まるで糸が切れたように……否。実際に張り詰めていた精神という名の糸が深藍の温かい優しさに触れたことで途切れたのだろう。
一瞬で自身の腕の中で夢の中に飛び立った里織を壊れ物を扱うように丁寧に抱き上げた深藍はそのまま華林を連れ寝室へと消えていくのだった。
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