第5話 懊悩煩悶

 脱衣室兼洗面所。


(……どうすれば)


 そこで全裸の里織は大変な問題に直面していた。


(脱ぎっぱなしははしたない……けど……そのまま入れていいのかな?)


 里織の視線は洗濯機と思しき物体といましがた脱いだ下着を行き来する。

 洗濯機と思しき物体の中を覗いてみたところ、深藍が着ていた着衣と着ていただろう下着が入れられていたので、まず間違いなくそれは洗濯機なのだろうが、だからといって自分の下着を入れていいかがわからないのだ。


 先ず第一に、繊維の問題。

 幾ら馴染み深い食材と慣れ親しんだ料理が存在していたからといって、着衣に使用されている繊維や生地まで同じとは限らず、もしも利用されている繊維や生地が別物なら洗濯機もそれに合った物になっているはずだ。


 脱いだ物をぼこすか洗濯機に入れるだけでネットすら活用したことのない里織は当然のように自分の世界にあった洗っていい物とダメな物……そしてダメな物を洗濯機に突っ込んだらどうなるかを知らない。


 だからこそ里織は悩む。もしもこの世界の繊維や生地が異なっていて洗濯機がそれらを洗えるように作られていたら。更に言えば地球の着衣を洗えるようにできていなかったら。自分の下着は入れてはダメなのでは? と。


(……ないとは思うけど……でも、壊れたら……)


 流石に洗濯機による洗濯を控えた方がいい着衣を入れたからといって洗濯機自体が壊れることはないと思うが、それでも万が一ということはあり、その万が一を必要以上に意識し不安を感じるのが里織という生き物なのだ。


(それに……一緒に洗っていいのかな?)


 そして第二の問題として、深藍が一緒に洗濯することを嫌悪しないか否か。こちらの方が第一の問題より深刻である。

 深藍がそうだとは限らないが、見知らぬ人物の着衣と自分の着衣を共に洗濯することに忌避感を覚える者が一定数居ることは事実。


(……もしも深藍さんがそうなら……勝手に入れたら……怒られる、よね? 仮に怒られなくても……嫌がられる……かも)


 想像し、里織は青ざめる。

 怒鳴られるのは嫌だ。責められるのは怖い。

 拒絶されるのも嫌だ。否定されるのも怖い。

 可哀想だと思われるのも、出来損ないだと思われるのも辛い。


 そんな里織にとって誰からか疎まれるというのはこの上ない恐怖を覚えることであり、故に一緒に洗濯した結果深藍から嫌がられたらと思うと……その光景を想像しただけで強い恐怖を覚え、行動不能になってしまう。


「里織、入った?」


「ッ!?」


 そんな今にでも壊れてしまいそうな精神状態だったからだろう。

 里織は突然聞こえてきたノック音と声に身を大きく上下させ、慌てて振り返った。


「あ、いえ。今から、入ります」


「そう? わかった。なら下着は後で持ってくるね。それと着てた下着と使ったタオルは普通に洗濯機に放り込んでいいから。先も言ったけど寝間着はまた着てもらうから入れないでね。それとお風呂上がったら行くとこあるから、そのつもりで」


「あ、はい。わかり、まし、た……?」


「じゃ、ごゆっくり~」


 遠ざかっていく足音。

 里織は深藍の言葉を心の中で反芻しながら身を震わせた。


(が、外出するの? 家から……出るの?)


 それは少し考えれば当たり前のことかもしれない。

 なんせ里織は異世界人で、今現在はどことも知れぬ国に不法に密入国している身。いや、正確には国以前に世界に密入しているが……兎も角。


 流石に異世界から来ましたとばか正直に告白するようなへまはやらかしていないが、それでも食事の際和歌月の人じゃないよね? と尋ねられた時深く考えず普通に頷いてしまったり小さな失態は幾つか犯してしまった。


 きっと和歌月。それが今現在自分が滞在している国の名前なのだろう。そして他の質問の返答を交え吟味した深藍は自分が和歌月の国民でないどころか、和歌月に滞在する権利すら有してないことを察したのだと思う。


(……)


 いや、わかってる。わかってはいる。今バレずとも後ろ暗い秘密はいつかは必ず白日の下に晒されることは。一生不法滞在できるわけないことは。

 だからきっとこの段階で。早期に看破されたのは。むしろ長い目で見ればいいことなのだということは。頭ではわかっているのだ。


(……)


 だが、理性で冷静な判断を下せようと感情は別なのだ。


 精神が泣き叫ぶ。これから自分はどうなるのか。どこに連れていかれるのか。連れて行かられた先で自分はなにをするのか。そこで事情聴取を受けたとして自分はしっかり事情を説明することができるのか。


 そして説明できたとして相手はそれを信じてくれるのか。もしも信じてもらえなければ自分は強制的に国外へ摘まみ出されるのか。それとも問答無用で独房へ放り込まれるのか。はたまた尋問でもされるのか。


(……嫌だ……そんなの嫌だ……怖い……怖いよ……)


 そうやって今後の行く末を予想しただけで心が千々に乱れ、精神的発汗が起きる。尋常ならざる不安と恐怖に死にたくなる。全てから逃げたくなる。


 我ながら情けないと思う。どれだけ悩んだところでこの件に関しては最早なるようにしかならないのだから、どっしり構えはせずとも普通にしていればいいのにそれすらできないというのは本当に情けない。


 だが、仕方ないではないか。それが自分なのだ。美袋枝里織の人格はそういう風に既に形成されてしまっているのだ。今更変えることなんて不可能。この精神の軟弱さ・惰弱さはそれこそ生まれ変わらない限り治りはしない。


 それにだ。そもそもの話、精神の強さが平均以下の豆腐メンタルだからこそヒキニートなんて家計に寄生するしか脳のない塵屑に成り果てていたのであり、人並みの我慢強さや精神力を備えていたら普通に社会人になれている。


(……そういえば私裸だ。とりあえず風邪引いたら大変だし……お風呂入ろ)


 いまだ精神は絶望の淵に立たされているが、自分が素っ裸であることを思い出した里織はひとまず風呂に入ることを決め、言われた通り下着を洗濯機へ押し込み寝間着を畳むとタオルを手に浴室へ繋がるドアを押し開けた。


(凄い……木の浴室だ……しかもこの匂い……温泉、だよね?)


 そして目に飛び込んできた光景と鼻腔を刺激する香りに愕然とする。


 一面が木だった。なんの木材を使用してるのかは当然不明だが、壁も床も浴槽も桶も窓以外の全てが木製で、しかも浴槽に張ったお湯は乳白色をしていて、浴室に蔓延する香りは温泉独特のそれである。


(? あれって……監視、カメラ……?)


 と、流れていた視線がある物に固定される。

 里織が凝視するのは四隅。その一角に備え付けられた一台のカメラと思しき物。もしやと思い視線を動かすと更にもう一台対角線上に確認できる。


(……そういえば、寝室やダイニングリビング……後、脱衣室にも有ったような……)


 特別意識して見たわけではないので確証はないが、今思えば同様の物体が視界の隅にちらちら映っていたような気がする。


(もしかして、完全に管理された社会だったり……?)


 完全に管理された、監視者によって天国にも地獄にもなる社会。

 たまにそんな世界観の小説だったりドラマだったりが存在するが……まさか、この国がそういう社会構造なのだろうか?


(……正直、誰かが見てるとしたら恥ずかしいけど……深藍さんも普通に入ってたんだし……これに関しては大丈夫、だよね? にしても……言葉だけじゃなくて文字まで一緒なんだ)


 里織は監理カメラの存在を頭の中から消去するように置いてある容器に意識を向け変えそれを手に取ると書かれた文字をまじまじと見る。


 薄々そうかもしれないと思ってはいたが、実際に目の当たりにしたことで安心感を覚える。全くの異世界。未知の場所。言葉が通じないかもと心配してただけに言語体系が同一という事実が齎す安堵感は計り知れない。


(……)


 石鹸で陰部を洗い、リンスシャンプーの順で髪を洗い、ボディソープをタオルにつけて体を洗い、桶で掬ったお湯をかけて体に付着した泡を落とすと、ドアを開き洗濯機へタオルを放り込み湯船にゆっくり浸かる。


(……気持ちいい)


 全身を包むお湯の感触。里織は幸福感に浸かりながら久々に運動して痛んだ脚を揉み解し、一通り揉み終えたら今度は肩にお湯をかけ始める。

 久しく行ってなかった温泉……ていうかヒキニートがそんな贅沢していいはずもないのだが……ともあれ。本当に久しぶりの温泉は大変極楽である。


(このまま時間止まればいいのに)


 だからこそ、そんなことを思わずにはいられない。

 この心地好い状態のまま全て停止してしまえと。心安らぐ時が永遠に続けばいいと。無論、そんなの夢のまた夢であることは知っている。


 何度も言うがわかってはいるのだ。自分がどれだけ現実逃避しようと時間は常に流動することは。自分が足踏みしてる間にも時は無情にも過ぎ去り、世界は少しずつではあるが確実に前に進んでいくことは。


 あぁ。わかってる。ずるずる引きこもり続け逃げ続け、なにもできなくなった里織は理解している。自分がなにも行動を移さなければ、なにも変わらないどころか時が進むにつれ事態は悪化する一方だということは。


(はぁ。似たようなことばっかり……本当、嫌になる)


 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。


 昔からそうだ。同じような考えばかりが頭を掠め続ける。考えるだけで行動に移せないのに。毒にしかならないのに。うだうだうだうだうだ無意味で無駄でしかないことを余計に延々と夢想してしまう。


 そしてそんな自分に嫌気が差す。

 自己嫌悪が深まりより悪化する。

 泥沼にはまったように自己否定から抜け出せなくなる。

 それが巡り巡って自信を削ぎ落とし行動力や決断力、生きる気力を奪う。

 実行力がないから思考しかできなくなり延々と夢想ばかりを繰り返す。

 色々なことを思惟するあまり嫌なことを想像して不安と恐怖に苛まれる。

 そしてそんな不安と恐怖が心身を支配してこれがまたやる気を削ぐ。

 意欲が削ぎに削ぎ落とされた結果なにもできず思考ばかりが暴走する。

 思案しかできないから余計なことばかり考えどんどん深みに沈んでいく。

 そしてそんな自分に嫌気が差す。

 以下無限ループ。悪循環。負のスパイラル。


(異世界に来てまでなに考えてるんだろ……本当、嫌になる……死にたい)


 結局、引きこもりはどこへ行っても引きこもりということなのだろう。


 悲しきかな。世界が変わろうとダメな塵屑は塵屑のまま。生ゴミは生ゴミ以外の何者でもなく。生きた粗大塵が生きた粗大塵たる所以の凝り固まった腐った性質は残念なことに世界を移動した程度では微塵も変わらないのだ。

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