第4話 文明水準は大差ない
流し台。
(……よかった)
レバーを上げたことで蛇口から何事もなく水が出たことに早織はほっと胸を撫で下ろした。
深藍が後片付けを始めようとしたとき咄嗟に自分がやりますと申し出たのはいいものの、言ってからこの世界に水道はあるのだろうか? あったとして自分は使用できるのだろうか? と色々不安を覚えたが杞憂だったようだ。
(私の世界のと変わらない)
食器を洗いながら視線をさ迷わせた里織はそんな感想を抱く。
異世界ならば入手可能な資源・資材は当然異なるだろうし、蓄積された歴史や好まれる造形などにも当然違いがあるだろうため、何もかもが同じと言うわけにはいかないだろうが、見た限り大きな違いはない。
燦々とした光を放ち部屋全体を明るく照らす電気はあるし、ダイニングセットとは別に寛ぐためのソファや椅子、机も完備されているなど、自分の世界のリビングと対して変わらない。
ネットに投稿されている多くの異世界物の小説では異世界の文明は地球の文明より遥かに劣り、知識による俺TUEEEEEEが安易に行えるようになっているが、リビング一つ見るだけでもこの世界では難しそうである。
まぁたとえ中世のような文明だったとしても、学者……そうでなくても東大出の次世代を担うエリートでもないただのヒキニートで負け犬で底辺たる自分では現代知識を用いて社会を発展させることなどできないだろうが。
否。それ以前にそのような中世社会……即ち人権なにそれな超不安定社会兼超無法地帯では、特殊能力が無ければ欠片の才能もない自分など都合のいい絶好の鴨でしかなく、今頃悲惨な目に遭っていたに違いない。
(……いや)
どれだけ高度な文明社会でも放り出された場所次第では不法入国者として処分されていた可能性もあれば、それ以前の問題として未知の生物に食べられていた可能性もある。
そうでなくとも初めに出会ったのが深藍みたいな人物ではなく所謂裏社会の人間なら、自分のようなこの世界の戸籍を持たない異世界人では想像するのも嫌になる仕打ちを受けていただろうことは想像に難くない。
(本当……深藍さんでよかった)
この世界にほっぽり出されて最初に会ったのが、見ず知らずの自分にも笑顔で手を差し伸べてくれる深藍で本当によかったと心の底から思える。
(……でも……私……なにも返せない)
だからこそ、尚更。無一文で頭が悪く体力も皆無なこれといった取り柄を一切持ち合わせていない自分ではなに一つとして見返りを提供できない、その判然たる事実がこれ以上なく心苦しく辛かった。
できることなら恩を返したい。けれど無能な自分では返せない。だがだからといってこの世界で一念発起して成功を収め、後程倍以上にして恩を返そうなんて殊勝な心がけをダメ人間が持ち合わせているはずもなく。
(本当……嫌になる)
常に逃げ腰で、負け犬思考。
常に保身的で、自分に甘い。
本当に、そんな甘え癖が染み込んだ堪え性零の屑でグズな自分が嫌で嫌で仕方ない。そして治さなければいけないと頭ではわかっているのに、全然行動に移せない根性無しでろくでなしな自分が嫌で嫌で嫌になる。
(……あ)
と、器用でもないのに考え事をしていたからだろうか。綺麗に洗った皿を水切りラックに乗せようとしたその時、皿がつるりと手から滑り落ちた。
物語の主人公ならばこういったときは咄嗟に手を伸ばし難なく阻止して事なきを得るのだろうが、そんな大それた芸当を反射神経や運動能力が地を這う里織が行えるはずもなく。
そのため里織はそれを呆然と見つめるしかなかった。それこそ他人事のように。あたかも画面の向こう側の出来事を眺めるように。なにもできないまま時間が過ぎ去り……そして遂に皿が床と接触する。
だが、聞こえたのはがしゃーんという皿が割れる音ではなかった。里織の鼓膜を震わせたのはからんというなんとも奇妙な音で。それを奏でた皿は不思議なことに割れるどころか皹一つ入っていなかった。
(……え? 嘘……)
安堵半分。驚愕半分。
半信半疑のまま身を屈め床に転がった皿を手に取り回転させる。
(……本当に、皹一つ入ってない……無傷……)
驚くことに、本当の本当に傷一つ見受けられなかった。
見た目は日本で数多く流通している白色の……割れ易い磁器製のそれだが同じなのは外見だけで原料は違うのか、それとも特殊加工が施されているのか。はたまた地球育ちの自分の常識では計り知れない力が作用しているのか。
その辺りのことはこの世界の常識はおろか母国の一般常識すら欠如しているような里織には全くもって謎だが。
「きゅーん」
と、皿をつぶさに観察していると不意に背後から鳴き声が聞こえた。
低姿勢のまま振り返るとそこには不思議そうにこちらを見つめる生物が一匹。純白に青藍と暗紅色の紋様が全身に走った狐と思しき可愛らしい四足歩行の動物だ。
「……えっと……え? 狐? 深藍さんのペット……だよね? 多分」
深藍からペットがいるなんて話は聞いてないが、ネズミみたいな小さな生物ならまだしも小動物とはいえ30㎝はあろう動物が入り込んでくる可能性は極めて低いだろうため、恐らく深藍のペットだろうとあたりをつける。
まぁこの世界に魔法や超能力が存在し……というかあんなファンタジーの定番かつ代表格ともいえるスライムみたいな生物がいる時点で十中八九存在していて、そんな未知の力を使用して入ってきた可能性は勿論あるが。
「きゅーん」
「……」
だが、仮に野生動物だとしてだ。こんな視線を交差させて逃げないどころか、襲いかかってこなければ威嚇もしないなんてことはあるだろうか?
生物学者ではないので自信はないが、多分、ないと思う。好奇心旺盛な産まれて間もない時なら別だが、これだけ育っていれば警戒心が相応に育まれているだろうから、野生なら間違いなく何らかの行動を起こしてるはずだ。
「きゅーん?」
「……」
となると。この生物はやはり深藍のペットの可能性が高い。
「……」
里織はそーっと手を伸ばそうとして、即座に引っ込める。
元来可愛いものが大変好きなので、できることなら眼前の愛らしい生物を心行くまで可愛がりたいのだが……悲しきかな。心配性で臆病で小心者の里織は小動物を撫でることすら尻込みして満足に行えない生物なのだ。
(ペットなら予防注射的なものはしっかりしてあると思うけど……でも万が一ってこともあるし……そうじゃなくても引っ掻かれたら痛いし……)
「気持ちよかったぁ。里織、洗い物終わった~?」
「あ、まだで……」
里織は聞こえてきた声に慌てて立ち上がり、振り返りながら言いかけ……硬直した。
名乗ってないのに名前を知られていたからではない。既に食事中に名前は名乗っておいたので名前を呼ばれたことは不思議でもなんでもない。
里織が硬直したのは振り向いた先にいた――水分が抜けきっていない艶やかな髪をタオルで拭う、ウェア姿の健康的な色香を振り撒く深藍がとても魅力的で思わず見惚れてしまったからに他ならない。
「そう? なら残りはあたしがやるから、里織はお風呂入ってきていいよ」
「え、あ、いえ。もう、終わるので」
「そうなの? なら、任せていい?」
「あ、はい。勿論」
「わかった。それじゃ、お願いね? 洗い物終わったらお風呂場に直行していいから。それといまはまだタオル類しか用意してないけど、後でちゃんと下着も持ってくから心配しなくていいからね? 寝間着はさっき着たばっかりだから今着てるのまた着てね。それとお風呂場は向こうの扉の先ね」
そういって深藍は二つ並んだ扉のうちの一つを指差す。
「因みに隣はトイレだから。それじゃあたしと
言いたいことは全て言い終わったのか、深藍は狐を抱き抱えソファーの方へ足を進める。里織は深藍がソファに腰を下ろすのを見届けると、洗い物に戻り、そそくさ洗い物を終えるのだった。
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