第3話 食事

「……ん、んぅ。良い匂い」


 鼻腔を撫でる食欲をそそる芳ばしい香りに里織は目を覚ます。

 微睡みから抜け出せず完全に意識が覚醒しきっていない夢見心地の里織は半ば無意識下に寝ぼけ眼を擦りながら体を起こし、意識と視界がある程度鮮明化したところでぐっと全身を伸ばす。筋が伸びて大変気持ちが良い。


「……? 服、変わってる。それに……ここ、どこ?」


 意識がはっきりしたところで里織は周囲の状態にようよう気付く。

 衣服は寝る前に着たはずの桃色と白色の可愛らしいというか子供っぽいパジャマから白黒のカッコいい感じの服に変わっていて、きょろきょろ視線をさ迷わせてみるとそこは自分の部屋とは似ても似つかぬ場所だった。


 天井と壁は新築のように綺麗な潔白で、床には何故か畳が敷き詰められていて。机や椅子、本棚とそれらの調度品は大きさや色合いが異なり、その上に乗っている物や並べられた本は見覚えない物ばかり。


 更には自分が寝ていた場所もベッドから布団に変化していてテレビやパソコンに至っては存在その物が消滅しており、畳の上にはこれまた記憶にない円盤状のなにかが無造作に置かれている。


 窓は小窓ではなくベランダに通じる大きな物になっていて、その向こう側の空はどれだけ寝ていたのか茜色に染まっている。

 しかも自分の部屋は二階にあるはずなのに、二階とは思えないほど空が近く、近くも遠くもない距離には見覚えのないマンションらしき建造物が……と、そこで里織ははたと思い出す。


「……そうか、私……」


 自分が大草原の中に放り出されていたことを。そこで深藍という名の女性に遭遇し、不安と恐怖に駆られ勝手にいっぱいいっぱいになっていると突然深藍に抱き締められ匂いを嗅がれ……意識が吹っ飛んだことを。


 文字通り全てを思い出した里織の顔色は見る見るうちに、それこそいまにでも湯気を立ち上らさんばかりの勢いで朱色に染まっていく。


(わ、私……に、匂いを……匂いをか、嗅がれ……そ、それに……い、今思えば私……ぱ、パジャマで……ッ)


 あの時はそれどころではなかったので……というよりそれ以前にパジャマであることを忘れていたので気にならなかったが、気付いた以上は気にせずにはいられない。他人にパジャマ姿を見られるとか恥ずかしすぎる。


(うぅ。最悪。火噴きそう。……て、待って。着てる服が変わってるってことはき、着替えさせられたってことで……うぅ。知らない人に裸見られた)


 容姿は悪い方ではないし、ぽよぽよした無駄な贅肉も無いので傷は浅いが、それでも赤の他人に裸を目撃されたというのは言いようもない恥ずかしさに苛まれてしまう。いや、赤の他人ではなく恩人やもしれないが。


(というかどうして。見ず知らずなのに……着替えなんか……あ、汗か)


 あの時自分は多量の汗を流していて、それはつまり服も汗でべとべとだったことを意味する。成る程。確かに汗だくの者を自らの寝床で寝かすことには抵抗感を覚えて然るべきかもしれない。


 後は汗を掻いたまま寝たら当然体は冷え風邪を引くことだって考えられる。気絶した見ず知らずの人物を家まで連れて帰ってくるような相手ならばそれを危惧し着替えさせるぐらいするかもしれない。


(……いや……違う。それだけじゃない。多分、体も拭かれてる)


 通常汗を掻いたまま寝れば睡眠中は寝苦しいうえ、起きた時には少なからずの嫌悪感を抱くものだが、 それがないということは恐らく体も拭かれたのだろう。正直汗で服が密着するあの感覚は嫌いなので有難い。


 有難い、のだが。


(うぅ。裸見られたうえに拭ってもらってるとか……死ぬほど恥ずかしい)


 当然のように羞恥心が凄まじかった。

 大の大人が体を拭ってもらうなど、想像しただけで悶絶しそうだ。


 恥ずかしげもなく親の金で生きていたヒキニートが今更なにをと思われるかもしれないが、それとこれとは別なのだ。個人的には。


 まぁだがそれでも相手は異性ではなく同性で、流石に体は拭いたとしても見ず知らずの者の大切な部分には触れないだろうためなんとか堪えられた。実際寝間着は変わっているが、確認したところ下着は変わっていないし。


「……あ、起きてる?」


 と。そうやって一人で赤面しあれこれ思案していると不意に扉が僅かに開けられ、その隙間から深藍が顔を覗かせた。


「お腹すいてるでしょ? ちょっとこっち来て」


「あ、は、はい」


 深藍の顔が引っ込むなり里織は立ち上がり条件反射的にそちらへ向かう。

 これが本当に危ない人が言うことならここまで愚直に従うような真似はしないが、相手はここに連れてきてくれただろう恩人なのだ。そんな人に面と向かって来いと言われて拒否できるほど自分は強くない。


 いや、いいえと言える性分だったとしても今回ばかりは素直に従うが。


「さ、そこ座って」


 深藍がテーブルを挟む形で置かれた椅子の片方を指差す。

 里織が促されるままそこへ着席すると、深藍は台所の方に消え、なにやらコンロの火を消し上に乗っていた調理器具の中身を皿へ移し、ジャーから米を装ったお椀や箸と一緒に持ってきてテーブルの上に並べ始めた。


 そしてそれらを二人分用意したところで今度は食器棚からコップを取りだし、


「えっと、飲み物はなにがいい? お茶? お茶でいいか、うん」


 こちらがなにかを言う前に冷蔵庫から麦茶色の入った容器を取り出しこぽこぽコップへ液体を注ぐと、そのコップを里織と自分の前に置いて深藍は対面の椅子に腰掛け、にっこりと微笑む。


「一緒に食べよ」


「え? えっと……あの……」


 今でこそ世界規模の迷子になっている里織であるが、その実態もとい生体は何度も言うが臆病で小心者で引っ込み思案のヒキニート。


 食べていいよ。はいではお言葉に甘えて頂きます。なんてことができる性質の持ち主ではない。それどころか有難いという気持ちよりもどうしてとか、どうしたらという気持ちが先に出てしまう人種なのだ。


(ど、どうして? 見ず知らずの私に料理なんて……う、裏がある? で、でも、そんな人には見えないし……こ、 厚意? それなら食べないのは逆に失礼……け、けど、異世界の物を口に入れて平気なの?)


 里織は皿に盛り付けられた料理を見る。

 見た感じは人生の中で何度も見たことのある普通の肉野菜炒めで、使われてる食材も見たことあるような……というかまんまニラともやしとなにかの肉で、純粋に美味しそうな見た目ではあるのだが……。


「? 肉野菜炒めは嫌いだった? もしかしてニラかもやしが苦手? それとも豚肉がダメだったりする?」


 一向に手をつけないのを料理の中に苦手なものが入っているからだと思ったのか、深藍がそんなことを聞いてくる。


 だが、それは見当違いの的外れのお門違いなわけで。


「あ、いえ……そんなことは……(ていうか……豚肉なんだ。豚いるんだ。いや、もしかして……発音が同じだけで実際は別物だったり……? )」


「ん~? 毒とか入ってないよ?」


 そういって肉野菜炒めを箸で摘まんでぱくりと一口。


「あ、はい。それは、はい」


 わざわざ証明してくれたところ悪いが違う。確かに毒が混入してないかどうかも重要だが違うのだ。そうではないのだ。里織が懸念してるのは成分なのだ。

 いくらニラ、もやし、豚肉が自分が想像するそれらと同じ物だったとしても、世界が違うのだから異なる成分が含まれてる可能性は大いにある。


 もしも、もしもだ。その成分を体が受け付けずアレルギー症状を起こしてしまったら、深藍に特大の迷惑をかけることになるのだ。人様に迷惑をかけるとかそんなの豆腐メンタルの自分が耐えられるわけがない。


 まぁ他にもそのアレルギー症状を引き起こし苦しむのが嫌ということや、人様の目があると畏縮して食欲が失せてしまうという理由があるのだが……どちらにしろ結局は性格の問題なのだ。


 何事にも過剰に恐れ怯え縮こまる性格だからこそ素直に手が伸びないのだ。


「……なぁんて。わかってるよ。大丈夫。なにがあっても迷惑だなんて思わないし、食べてるところじろじろ見たりしないから、ね? 食べなよ」


「……ぇ?」


 だからこそ。心の裡全てを見透かしたような言葉に自然と顔は上がっていた。視界に入るのは元気を与えるような朗らかな笑顔。


「言ったでしょ? わかるって。端から見たら全然そんな風に見えないかもしれないけど、あたしもそっち側だからわかっちゃうんだよね。君の心身を支配する不安と恐怖は勿論、なにがどうしてそうなってるかまで全部」

「だからね、大丈夫。出逢って間もないのになに言ってるんだと思うだろうけど、安心して。変な目で見ることはないし白い目を向けもしない。悪意も敵意も害意も抱かないし責めも怒鳴りもしない。だから、食べよ?」


 不思議と。本当に不思議なことに。その言葉はすとんと胸裏に落ちてきて。手は自然と箸に伸びていた。


「……は……はぃ……いた、だきます」


「うん。いただきます」


「……美味しい」


 薄くも濃くもない絶妙な塩加減。野菜と肉の素材本来の旨味は損なわれるどころか塩味とうまい具合に調和されていて、ほんのりした甘味を含むふっくらごはんと相性抜群で箸が進む進む。


 自分はヒキニート。それも人様の目を気にしすぎるあまり行動不能に陥っているタイプの。なので本来なら人様の目がある場所ではがつがつ食べられない人種なのだが、先の言葉のおかげかあまり気にせず食べられた。


 そして更に言えば、ここ5年は親への申し訳なさや後ろめたさからなにを食べても素直に美味しいと思えなかったが……深藍と共に食べたこの日の食事は素直に美味しいと思えた。

 ただ、相変わらず精神に問題があるからかやはり美味しいとは思うものの、どこか現実味が乏しかった。後、色々質問してくるのも勘弁してほしかった。

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