第2話 遭遇
「初めましてだね。あたしは
肩まで流れた勝色のうる艶髪。黒曜石のような絢爛な黒目。きめ細かい肌。健康的な肢体。服の上からでもわかる、しかし決して強調し過ぎていない胸部。そんな抜群のプロポーションの人物に人懐っこい笑顔を向けられる。
挨拶されたのだからこちらも挨拶を返すのが礼儀というもの。そのぐらい五年間ヒキニートを続けていた屑な自分でも知っている。そう、高校を中退した自分でもその程度の教養は持ち合わせているのだ。
いるの、だが。ヒキニートがまともな挨拶を返せると思うなかれ。
「ぁ……っ……は、初め、まして……」
口から出たのは蚊が鳴くようなか細い声量で、しかも顔は俯いているという、返せたのはそういうダメダメな挨拶。
正直、親の顔を見て満足に話せない時点で結果は予想できたことだが、それでも実際やらかすと居たたまれなさがとてつもなかった。
顔が真っ赤に染まり熱を帯びていくのが手に取るようにわかる。
そして挨拶一つまともに行えず相手の目を見ることもできない、そんな自分がどんな風に見られているか……変な目で見られてるかもしれないと思うだけで一気に不安と恐怖が沸き上がり、精神的発汗を起こしてしまう。
意思に反してだらだら汗が噴き出る。
更には急に押し黙り何もしてないのに汗を噴き出してる自分がどう思われてるか想像すると余計に精神的発汗を起こすという悪循環に陥り。それが死にたくなるほど辛く苦しく。正直、今すぐにでもこの場から逃げだしたかった。
(……けど……)
折角会えた人間。それも異性ではなく人の良さそうな同性。
聞きたいことが山程ある現状、このチャンスを逃すのは百害あって一理なしで……しかし頭では理性的に打算を働かせようとも、精神的圧迫がある限りなにもできなくなるのが豆腐メンタルの特徴なわけで。
「……っえい!」
「……ょぇ?」
思考を巡らせるあまりどこまでも混濁し沈殿しそうになる意識を突然体に走った衝撃と、全身を包み込むような温もりが強引に引き上げる。
何事かと顔を上げると、何故か視界の右端に深藍の顔が映り……自分が抱き締められてることに気付くまでそう時間はかからなかった。
「あ、あの……こ、これは、一体……な、何を……どうして……」
「ん~? 抱擁だよ。抱擁」
突然の事態に困惑する里織の背中を撫でながら深藍はあっけらかんと、それでいてあたかも子供を諭すような慈愛を孕んだ声音で答える。
「お姉ちゃん達がね、よくやってくれてたんだ。あたしが心細さを感じてる時や不安と恐怖に押し潰されそうな時なんかにさ。すると途端に不思議と安心感に包まれてね。時には崩壊寸前の精神まで簡単に持ち直すんだ」
「だからさ君の不安と恐怖……後は緊張を解すためにはこれが一番かなって。あたしがそうだからさ、わかるんだよね。君の弱さが。君の精神状態が。致命的ともいえる綻びが。っで、どう? 少しは落ち着いた?」
心からこちらを慮るような問いかけに里織は戸惑いながらも頷き返した。
不思議と。本当に不思議なことに。深藍の鼓動が聞こえる度に半ば錯乱状態だった思考と精神は落ち着きを取り戻し、全身で感じられる深藍の温もりや鼻を擽る仄かに甘い香りにはこれ以上ない安心感を覚える。覚えるが。
(あ、汗……臭わない、かな……)
そこが気がかりだった。
多量の汗を掻いた後だ。臭いに慣れてしまっている自分ではあまりわからないことだが、流石に無臭とはいくまい。だが、臭いますかなんて恥ずかしくて聞けない。何より尋ねて臭いと返されたらと思うと怖すぎて聞けない。
体臭は相手が同性であっても無性に気になってしまう事柄なのである。
「にしても良い匂いだね、君。香水とか使ってるの?」
「……はぁぇ?」
だからこそ、その胸のうちの心配を読み取ったような絶妙なタイミングでの発言にすっとんきょんな声をあげ、目をぱちくり瞬かせてしまう。
「……えっと、あの……つ、使って、ませ、ん」
「ふぅん。そうなんだ。じゃぁこれ君の匂いなんだね。うん、良い香り」
言って、すんすんと首筋に鼻を近付け匂いを嗅ぐ深藍。
規則正しい鼻息が首筋を撫でる度に擽ったさを感じ、悶絶するような恥ずかしさに全身の熱が顔に集中してるのではないかと錯覚するほど顔面の体温が急上昇するのがわかった。
「ふゃ」
刹那。遂に羞恥心が臨界点を突破。既に体力を大幅に消費し過度のストレスで精神を磨耗させていたこともあり、里織は面白いほど呆気なく意識を手放したのだった。
「ん、気絶しちゃった。それじゃお持ち帰りお持ち帰りぃっと」
里織が気絶するなりそう深藍が呟くと、二人の姿は忽然と消え失せる。
大草原からは再び人影が消失し。変わらぬ静けさがそこにはあった。
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