第1話 異世界転移

 黒髪黒目の女性、美袋枝みなぎし里織さおりは目に映る光景に酷く困惑していた。

 ネット上で「見知らぬ天井だ」という台詞を何度も目にしたことがあるが。今、自分の目に映る光景は見知らぬ天井どころではない。


 大空を悠々と滑翔かっしょうする巨大な竜と思しき生物。

 四方に広がる広大な大草原と闊歩する見たことない数多の生物。

 美しい青空にうっすら浮かぶ不気味な左右対称の半月状の焔と水。

 今まで何度も目にしてきたそれよりも一回りほど大きい太陽。


「なに、これ」


 自分に何が起きたのか。今自分はどのような状況に立たされているのか。それ以前にここはどこで現在視界に広がる世界は現実のものなのか。何から何までさっぱりわからない里織は呆然と呟く。


 今日も今日とてベッドの上で目覚め、親からいい加減働けと自立しろと言われることに怯えながらも無気力に時間を浪費する、そんな一日が始まると思っていたのに、これは一体全体どういうことなのだろうか。


「……」


 無言で頬をつねる。痛い。

 無言で頬を叩く。痛い。

 無言で息を止める。苦しい。

 無言で息を吸い込む。自然の香り。

 無言で目を擦る。変化はない。

 無言で目を瞑り開く。変化はない。


「……ッ!?」


 今自分の目に映るのは紛れもない現実。どういうわけか自分は異世界にいる。それを認識した途端、胸の奥底から膨大な不安と恐怖が爆発的に湧き上がる。今後に対する不安と恐怖だけが全てを埋め尽くす。


 喜びなどない。当然だ。よくネット小説で見かけるような、異世界に来れたやったーなんて能天気で楽観的でありきたりな感想を常に生き方も思考も後方に向かって全力疾走な里織が抱けるはずもないのだ。


 そもそも無一文着の身着のまま。サバイバル知識が無ければこの世界の一般常識すら無い。人見知り以前に人間不振に陥っている自分が言語が異なるだろう現地住民と意志疎通なぞ図れる謂れなどないお先真っ暗な状態。


 こんな絶望的に詰みに詰みまくった状況下でこれからの未来に希望と期待を見出だし一喜一憂できる肝っ玉があるならば、社会という荒れに荒れた大海原にも臆することなく繰り出すこともできたわけで。


 早い話、ここで前向けになれるならヒキニートになんてなっていない。


「なに、なんなの……私、これからどうすれば……と、とりあえず……移動した方が……いいの?」


 改めて周囲を見渡すが、幾ら目を凝らせど視界に映るのは一面を覆った群集する数センチ程の植物群と彷徨く数多の未知の生物のみ。人影など欠片も見えない。見える気配すらない。

 こんな人間以外の生物しかいない場所に居続けるのはなんとなく不安である。今はまだ襲われていないが、ずっと襲われない保証はない。


 見た限り大半の生物は草を食べていてこちらに関心自体ないようだが、それ以外の生物の多くは値踏みするようにこちらへ視線を向けている。

 はっきり言って安全面を考えれば移動しない手はないだろう。が。


(で、でも……どっち行けばいいのかわからないし)


 そう。問題はそこだ。いや問題自体は他にも多数あって山積みも山積みなのだが。

 兎に角、流石に土地勘が皆無の状態で無闇に動けば余計に状況が悪化するような気がしてならないのだ。


(それに……たとえ人を見付けても、多分言葉わからないし……わかっても得体の知れない私なんて爪弾きにあうと思うし)


 運良く人里に辿り着いたとしてもきっと会話なんて成立しない。なまじ会話が成立しても、一般常識が欠けに欠けてる得体の知れない自分なんて排斥されるのがオチだ。オチに決まってる。


 いや、排斥されるだけならまだいい。もしも人権なにそれな超不安定社会ならば非力で華奢な私なんて一瞬で食い物にされる。美醜の価値観が違うならあれだが一緒なら無駄に容姿が良いだけに生き地獄一直線だ。


「……」


 となると。本当に自分はどうすればいいのだろう。

 物語の引きこもり主人公ならヒキニートにあるまじき行動力と冷静さ、そしてあり得ない閃きを駆使して現状を打破するのだろうが、自分は物本の出来損ないの欠陥品の落ちこぼれの豆腐メンタルの負け犬だ。


 このような珍妙奇天烈摩訶不思議な異常事態に巻き込まれて冷静に物事を把握分析するなんて到底不可能。というかこういった時に自己で判断し思案を巡らせ行動できるほど能動的なら立派な社会人になれている。


「……っ」


 八方塞がり。その事実を改めて認識してしまい目頭に涙が滲み出てくる。

 社会のお荷物でしかない負け組だとしても二十歳を超えた大の大人が簡単に泣くというのはみっともないことなのだろう。どれだけ辛くても悲しくても歯を食い縛り我慢するのがきっと大人のあるべき姿なのだと思う。


 だが、仕方ないではないか。元より不安と恐怖から社会から逃亡を選んだ負け犬だ。こんなワケわからない場所に一人放り出されてなお体面を保てるわけがない。まぁヒキニートの時点で体面なんて自然消滅してるけど。


「……」


 ぐしぐしと。袖で乱暴に涙を拭う。が。拭った先から新たに涙が零れる。

 頭ではわかっている。泣いて何かが始まるわけでないことは。こういう時にうじうじしていても事態が好転しないことは。自分から動かなければ事態は進展せず己だけが流れる時間の中に埋没してしまうことは。


 引きこもり続けたこの5年で痛いほど身にしみている。


「……」


 しかして。頭でわかってるからといって動けるならとうにヒキニートから脱し、手に職を持って同僚達と学生時代とはまた違った青春を謳歌しているわけで。それができていないということはつまりそういうことなわけで。


 だがかといって今回ばかりは動かなければ本当にヤバいだろうこともわかっている。野垂れ死にするのはまだしも、喰われて死ぬのは嫌だ。生きたまま補食されるなんて絶対痛くて辛くて苦しいだろうから。


(怖いけど……こんな所に居るのも怖いから……とりあえず、歩いてみよう)


 一頻り涙を流し幾分か落ち着きを取り戻した里織は立ち上がり歩き出ーーそうとして、再び視線を巡らせる。


(……でも、本当にどっちに行けば)


 何度見ても周囲には人影はおろか人工物すら見えない。見える範囲全てが大草原だ。いや。正確にはかろうじて右方の遥か彼方に森らしきものは確認できるのだが……遠いし無事辿り着けたとしてどうしろと。


 森の中はここら以上に未知の生物で一杯だろうし、視界も狭いに決まっている。見えてる状態ですら襲撃されればそこで一発アウトなのだから森の中で奇襲なんて受けたらどうなるかなど考えるまでもない。


「……」


 とりあえず憂鬱ではあるが適当に前方に歩みを進める。

 勘だけは冴えていて直感には自信があるんだ、なんてことは勿論ないので完全に運任せの天任せだ。


(よかった。襲ってこない)


 周囲の様子を見た里織はホッと内心で胸を撫で下ろす。

 もしかしたら動くことで刺激を与え未知の生物が襲ってくるのでは? そう懸念していたのだがそれは杞憂だったようで、未知の生物達は遠巻きに視線を向けてくるだけでこちらに接近する様子はない。


 警戒しているのか、腹が満たされていて大人しいのか、ここに居るのは全て温厚な草食動物なのか、自分という餌を狙い互いに牽制し合っているのか、はたまた全くの理由からなのか。その辺りはわからないが。


(……疲れた)


 陰鬱な気分のまま歩くこと十五分程。進行距離凡そ一キロ。

 典型的なヒキニートで軟弱な里織は早くもバテていた。


 元々太り難い体質なので五年という年月を引きこもり続けた今も線は変わらず細いが、これは体質がそうなだけで別に引きこもりながらも運動だけはしていたとかそんなのではない。むしろ運動なんて全然してこなかった。


 そのため体力は多くの引きこもりと同じで皆無。一キロ歩いただけでなけなしの体力は底を尽き、足はその部分に働く重力だけ加重されたかのように重い。ぶっちゃけ一キロ歩けただけでも自分的には勲章ものである。


(……休もうかな……)


 そんな時でないことは重々承知しているが、美袋枝みなぎし里織さおりは昔から今に至るまで自分に非常に甘い生き物であるからして。心身共に疲労困憊である里織は足を止めその場に腰を下ろした。


 女の子座りや胡座は恥ずかしいので両膝を抱える誰もが一度はやったことのあるあの座り方。そう。所謂体育座りで小休憩を取る。


(……あれ、スライム、なのかな?)


 里織は先程からずっと気になっていたある生物に目を向ける。

 視線の先。十メートルほど離れた位置にぷるぷる動く生物一つ。

 向こう側が透けて見える水色の物体。目も鼻も手も足も。多くの生物が備えている器官が確認できないそれはファンタジー系の創作物では最早お馴染みの生物、世間で言うところのスライムに似通っていた。


(もしかして、ここにいるのって……皆弱い……のかな?)


 偏見かもしれないが里織のイメージするスライムというのは序盤で勇者一行に呆気なく倒される生命体だ。物語によっては戦闘経験皆無の勇者にすら経験値稼ぎの糧にされる、そういうちょっと哀れな生物である。


 そしてそんなスライムが普通に生息する場所は物語で言えば序盤、よくても中盤に登場するエリアであり、そんな場所を生息圏にしているならここらにいる生物はこの世界において下の方に位置するのでは? と思ったのだ。


(まぁ。この世界でどれだけ弱い生物として認識されていようと、私じゃ絶対勝てないけど)


 ヒキニート。この世界に能力を数値化可能な者がいてその者に測定を頼もうと悪い意味で測定不可能だろう自分では、この場に居る生物がこの世界の生態系ピラミッドで幾ら下に位置していようと逆立ちしても勝てないだろう。


 というか倒せなくて当たり前である。なんせ刃物を平然と振るえる連中とヒキニートは……否。人類は最早生物として別物。その者達がばったばった倒せる生命体だからといって人類より弱いことにはならないのだから。


 いや。そもそもヒキニートが他者を下に見ようというのが言語道断なのだが。


(なんだか……眠くなってきた)


 目を覚ました瞬間意味不明な状況に見舞われていたうえで久々に動いて心身共に疲弊したからだろうか。それとも太陽のぽかぽかした陽気のためだろうか。急に睡魔が押し寄せてきて意識が微睡み始める。


 寝たら死ぬ。極寒の地ではないため凍死はしないだろうが、食い殺される可能性は大いにある。寝てる間に即死させてくれるならむしろ諸手を挙げて歓迎する勢いだが、そうでない可能性がある以上は避けたい。


 痛くて苦しくて辛いのは真っ平御免なのだ。


(このままじゃ……寝ちゃう。動こう)


 まだ疲れは癒えていないが、このままなにもせずじっとしていたら意識が睡魔に持っていかれてしまうので、体に鞭打ち動き出す。


 宛はない。行動方針も固まっていない。今後自分がどうしたいかも定かではない。完全な無計画の無鉄砲。だがそれでも動く。眠らないために。


 活気も気力も気迫も生気も何一つ感じられない瞳を向ける方向へ。ただただ足を出し続けるのだった。


★★★★★


 歩くこと十数分。


「もう、無理。あ、暑い」


 慢性的な運動不足である里織は当然のようにぜぇはぁぜぇはぁ息切れを起こしバテていた。

 急な運動をして体がびっくりしたのか、それとも単に体力がないがためか。あたかもダムが決壊したかのように身体中からは汗が溢れだし、特に顔面からは多量の汗がだらだら流れ落ちている。


 もう限界である。何が辛いって行けども行けども一向に人工物も人影も確認できないどころか、歩く方向を間違ったのか景色が全くと言っていいほど変わらず進んでいることを実感できないのが大変苦痛である。


 珍しく運動したせいで体が以上なまでに熱を持っていることよりも、足が重くて痛いことよりも。何よりもそれが。景色に変化がないことが辛かった。これはランニングマシンが長続きしないのも納得である。


(なんで私がこんな目に)


 恨み言泣き言を言ってもどうにもならないことはわかっているが、そう思わずにはいられなかった。


 自分が一体何をしたというのだ。確かに自分は清く正しく真面目に生きてきたとは言い難く、誰にも迷惑をかけてこなかったなんて口が裂けても言えることではないだろう。だが決して悪事は働いていない。むしろなにもしてこなかったのである。それが原因だったら完全自業自得だが。


「……もう、嫌。暑い辛い苦しいダルい死にたい……」


 肉体的にも精神的にも疲れた。さっさと今感じてる苦痛と苦悩から解放されたい。周囲の未知の生物の容姿的にファンタジーな世界なのだろうから、誰か即死魔法を使ってくれないだろうか。切実に。


「ねぇ。そこでなにやってるの?」


「っ!? ……?」


 里織は不意に聞こえた女の人の声、それも母国語に慌てて立ち上がり周囲を見回すが、人の姿形を発見できず疑問符を浮かべる。もしや未知の生物の仕業か? と思いもしたが、幻聴の線も捨てきれないので判断に困った。


 こんなはっきり聞こえたのは今回が初めてだが、結構前から自分一人なのに名前を呼ばれること……正確には呼ばれたような気がすることは何度もあったので、ワケわからない事態に巻き込まれそれが悪化したのかもしれない。


(もう、私はダメなのかも。甘えた根性が根付いてる時点でダメなのは確定事項だけど)


「おーい。おーい。聞こえないのー?」


(まだ、聞こえる。いよいよ末期なのかも。これもヒキニートの時点で確定事項だけど)


「おーい。うーん? もう少し近付かなきゃ聞こえないのかな?」


 ここで返事をしたら厨二病の段階をすっ飛ばして私も晴れて要注意人物あるいは危険人物と認識される人達の仲間入りなんだろうなでも私は既に精神病患者といえなくもないし今更かと、自分自身に辟易し始めていると。


 とん、と肩に軽い衝撃を感じ心臓が飛び跳ねた。誤作動を勘繰るほどに胸が早鐘を打ち、直前まで掻いていた健康的なそれとは異なる俗に言う冷や汗脂汗がだらだら滲み出てくる。


 里織は畏縮しつつも、恐る恐る首を動かす。

 はっきり言って怖い。できることなら振り向きたくない。

 ならば何故振り返ろうとするのか。

 それは里織自身わからない。

 もしかしたら怖いもの見たさなのかもしれない。

 ただ、勇気からの行動でないことだけは確かで。

 果たして振り返った先に居たのは。


「……あ」


「こんにちは」


 同性の自分ですら見惚れてしまうほどの眩しい柔和な笑顔を浮かべた一人の女性だった。

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