第36話アンデット×パペッター5

「忌書を使うためには、契約を交わす必要がある。魔道書を遙かに凌駕する情報量を有する忌書は、そうやって契約者自身を歯車の一つにさえ組み込む。それはつまり、契約者が書と一体になるってことだ。その意味が分かるか?」

 久遠は数回手を握って、完全に腕が癒着したことを確認する。

 そして再び歩き出すと、さらに言葉を続けた。

「魔道書と忌書の違いは、著者が書に込めた〝狂気〟の差だ。もちろん、記された魔術式の優劣も関係するが、根本的な違いはそこじゃない。書き手が抱いた渇望(ねがい)、その狂おしいまでの妄執が魔道の秘奥まで到達し真理に至った時、狂気は人知を越えた秘蹟へと昇格する。忌書が畏怖されている理由はそこだ。所有者を取り込んで、己に刻み込まれた真理を、ただ体現する存在へと変貌させる呪われた魔道書――それが忌書、なんだよ」

 周囲には人体をも容易く切断し得るワイヤーが張り巡らされているが久遠は、それを恐れることなく歩みを進める。まるで傷を負うことなど恐れていないように。まるで死など恐れていないように。久遠は死地を闊歩する。

「この忌書――【妖祖の秘密】が再現する渇望は〝死の克服〟。契約者の俺は、あらゆる死を克服し、拒絶する。どんな傷を負っても、その状態に〝適応〟することができる」

 妖祖の秘密の著者であるルートウィヒ・プリンは、フランドル出身の錬金術師、降霊術師、魔術師を名乗る人間で、第九回十字軍の唯一の生き残りを自称していた。

 十字軍参加時に、捕虜として拘留されていたシリアで魔術を学び、異端審問によりブリュッセルで焚刑に処せられる直前に、獄中で本書を執筆した。

 獄中でプリンは己に迫る死に怯え、それをどうにかすべく方法を模索し続けた。自らが修めた秘術を総動員し、狂気すら味方に付けていくその渇望は、忌書を書き上げるに至ったのだという。こうして、あらゆる死を克服する狂気の書が生み出されたのだった。

 ついに久々津の前へと辿り着いた久遠は、淡々と事実を言い放った。

「諦めろ。てめぇじゃ俺は殺せねぇ」

 その瞬間、ピピピという緊迫した場には不似合いな電子音が鳴り響く。

「出ろよ」

 それが携帯電話の着信音だと理解すると、久遠は久々津へ短く告げる。音源は久々津の持っている携帯電話からで、その着信に応じることを久遠は許可したのだった。

「……もしもし」

 久々津は携帯電話の通話ボタンを押して、スピーカーを耳に押し当てて通話に応じる。

『どうも、毎度お世話になっています、ヘブンフラワーズ代表取締役の咎神天華よ』

「貴様ッ――咎神天華ィ……!!」

 電話越しに声を聞いた瞬間、通話相手が誰であるか理解した久々津は、血相を変えて怒りを滾らせた声を上げる。電話相手はヘブンフラワーズ社長、咎神天華その人であった。

「これはいったい、どういうつもりだ!? 貴様が寄越した奴らが、今どんな愚行に及んでいるのか分かっているのか……?」

『さて、ウチの社員がどうかしたのかしら?』

 敵意を通り越して、もはや殺気すら放って抗議の声を上げる久々津。

 天華は動じることなく、惚けるように間延びした声で神経を逆撫でるように答える。

『そんなことよりも、実はアナタに残念なお知らせがあるの』

 久々津に言葉を遮って、天華は思い出したと言わんばかりに話題を切り出した。

『アナタが〝商品〟を出荷してた能力者の育成施設、あるじゃない? ついさっき、そこが壊滅したらしいわよ』

 テレビのニュースで聞き及んだ出来事のように、酷く軽い調子で天華は言葉を続ける。

「なん……だと?」

 それを聞いて久々津の表情は、一瞬にして青ざめていく。

 先ほどまでの憤怒の形相が嘘のように、今は血の失せた顔で呆然と声を漏らした。

「どうして貴様が、そんなことを知っている!? この私さえ、知らなかった情報だぞ!」

『さあ、どうしてでしょうね』

 我に返り再び怒号を上げる久々津に対し、天華ははぐらかすようにしか答えない。

「まさか……貴様らの仕業か?」

 一つの可能性に思い至り、久々津は震える声でスピーカー越しの天華へと問いかける。

『ご明察。そういう依頼を請け負ったのよね。それでさっき、依頼を完遂した報告を受けたの。だから誰よりも早く、この情報を掴んでいたってわけ』

 よくできました、と嘲るように答える天華。その声から感じ取れるのは、久々津に対する嗜虐めいた愉悦だ。自らの妹を傷つけた諸悪の根源へ、報復するかのような悪意だ。

「ふざけるな! そんなことがッ……そんなことが、許されるか!!」

『あら、どうしてかしら?』

「私の依頼を受けておいて、その利益を奪うような依頼を同時に受けるなど……詐欺にも等しい行為だぞ!?」

『別段、おかしいことじゃないでしょ。アナタの依頼を受けたあと、たまたま依頼が入っただけのことなんだから。我々は依頼は選んでも、依頼者は選ばない主義なの。だから、例え依頼人に不利益が発生する依頼であろうと、条件さえ合えば受けるのよ』

「ぐっ……この、女狐がぁ……!」

『それに、この業界で騙し騙されるのなんて、日常茶飯事でしょ? 出し抜かれたアナタが間抜けだった、ただそれだけのことよ』

 激昂しながら反論する久々津に対し、天華は涼しい声で答えてみせる。

『さて、それで報酬の話だけど――』

 天華はこれが本題、と語調を強めて、話を切り出していく。

 天華の言うとおり、久々津はついこの間、異能因子を宿した子供たちを大勢買い付けた。

 その時の出費は莫大だったが、自らが発現させた能力者を能力者育成施設へと卸せば、何倍もの大金が久々津の元に舞い込んでくる予定だった。

 しかしその皮算用も卸先の施設が壊滅したのでは、水泡に帰してしまう。

『となると、困ったわね。依頼は完全に後払い制……アナタにその代金が支払えるの?』

 ヘブンフラワーズの依頼料金は高額だ。

 依頼の難度によってピンからキリまで変動はするが、久々津の依頼した非合法施設の警備となるとその依頼料はそれなりの値段をしている。

 本来の財政状況ならば容易く支払える額であったが、今はタイミングが悪かった。

「ふざけるなよ。お前の寄越した連中はな、私の大切な商品を滅茶苦茶にしてくれたんだぞ!? こんな有様で、払う金など一銭もない!」

『それじゃ、違約金を支払ってもらわないと。依頼の成否に関わらず依頼者の都合で依頼をキャンセルした場合、規定の違約金を支払うって、契約書に書いてあったわよね?』

 納得がいかないと声を荒げる久々津に対し、天華は事務的に言葉を続ける。

『ああ、安心して。まあ、どうせ払えないと思うから、その分の財産を差し押さえってことで、不足分は補わせてもらうから』

 酷く軽い調子で、天華は久々津に死刑宣告に等しい処置を下した。

「い、嫌だ……それだけは、待て、待ってくれ、それだけはぁッ――!」

『これでもサービス価格なんだけどなぁ。まあ、これからそっちに向かわせてもらうから。ちゃんと、後片付けしておいてね』

 一方的に告げると、天華は電話を切ってしまった。久々津はただ唖然として、通話の終わった携帯電話の画面を呆然と眺めていた。久々津の密かな野望が潰えた瞬間だった。

「は、はははは……」

 呆然自失としていた久々津は、突如として身体を震わせると静かに笑い声を上げる。

「ははははははは――ァッ!!」

 身をよじらせて、さもおかしそうに笑う久々津。

 その笑い声からは濃厚な狂気の色が見て取れて、右手で覆った顔半分から除く表情からは全てを憎み嘲り笑う哄笑が浮かんでいた。

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