間章

第29話シスター×カミングアウト

「――わがまま?」

 天華は受話器越しに聞こえてきた声を聞くと、思わず怪訝そうに尋ね返した。

「ええと……琴華? 悪いんだけど、ちょっと状況が読めないわ」

 場所は深夜のヘブンフラワーズ事務所。

 デスクの前に腰掛け煙草を燻らせていた天華は、突然の電話を受けて戸惑っていた。

 今夜は定時連絡のために事務所で夜通しの仕事をしていたが、予定の時間よりも大幅に早い琴華からの連絡を受け、何事かと思えば第一声がそれなのだから仕方ないだろう。

「あ、えっと……も、申し訳ありませんでした! その、私……ちょっと、早まって……」

「いいのよ、気にしないで。それで、どうしたのかしら。もしかして、何かトラブル?」

 天華に諭されると、琴華は慌てて謝罪をした。どうやら冷静さを取り戻したらしく、その様子を受話器越しに察して天華は一番の懸念を口にした。

「……はい、そうです」

 電話越しの琴華の声は、緊張から固く強張っていて、重々しく天華の問いに答える。

「不死川久遠が、職務を放棄しました。おそらく農場を襲撃して、囚われている子供たちを救出するつもりだと思います」

「……そう」

 琴華の報告を聞いて、天華は静かに頷く。

 その顔には動揺の色はなく、平然と事実を受け入れている。

「分かったわ。それじゃ、久遠くんを止めてくれるかしら?」

 天華は目を瞑って思考を巡らせると、やがて決断を下した。

 落胆はない。ただ、やはりかとそう思っただけだ。

 事実、この件は久遠を試す意味合いが強かった。彼がこれから裏の世界で生きていくのであれば、いずれは今回のような惨状を目の当たりにするだろう。

 そこで逃げ出してしまうのなら結局はそれまでのことだし、適正がなかったと言うしかない。〝この程度〟のことで折れる心なら、とてもではないが裏稼業は務まらない。

「…………」

「……琴華? 聞こえてる?」

 しかし、受話器の向こうからは返事はなく、代わりにただ雑音がざわついていた。

 それを不思議に思った天華は、電波が悪い可能性を考慮して再び言葉を繰り返す。

「姉様」

 受話器越しには重く息を飲むような声が聞こえ、琴華はおずおずと言葉を切り出した。

「私――」

 言い淀むように言葉を詰まらせながらも、琴華は必死に言葉を続けようとする。

 その様子はどこか切実で、いつもとは違う調子の琴華に天華は急かすことなく、ただ黙って静かに次の言葉を待った。

「その指示には従え……ませ、ん……」

 途切れ途切れでも、琴華は懸命に言葉を紡いでいく。

 自らの想いを天華へと伝えるために。

 それは彼女なりの精一杯の勇気と、久遠の言葉に背中を押された結果だった。

「――――」

 琴華の返答を聞いて、天華は思わず言葉を失ってしまった。それは彼女にとって想像もしなかったことで、逆に言えばずっと待ち望んでいたことでもあった。

「私、アイツを放って……おけません。だから、わがままなんです」

 上擦った声で、琴華はついに本当の気持ちを告げる。

「……ああいう場所を見てると、昔を思い出すんです」

 暗く沈んだ声で、琴華は言葉を続ける。

「でも、言えなかった。だって、姉様に迷惑をかけたくなかったから。姉様に呆れられたくなかったから。姉様に嫌われたくなかったから!」

 声を震わせながら、琴華は涙ぐんだ声で、必死に言葉を吐き出す。

 それは彼女が今まで、胸に溜め込み続けてきた感情の吐露であった。

「姉様がどんな思いをして、琴華を育ててくれたのか分かってます。学校に通ったり、友達と遊んだり、好きなことしてみたり……そんな大切な時間の大半を私のために使って、無駄にしてきたか。どれだけ負担になってるか。そんなことを考えると胸が苦しいんです」

 その言葉通り、二人で暮らし始めるにあたって、幼い琴華を養うために、天華は仕事に明け暮れていた。今でこそ貧困とは無縁の生活を送ってはいるが、当時の天華はコネクションも信用も築き上げておらず、がむしゃらに働かなければならなかった。

「琴華は姉様と出会ってから世界が変わりました。誰かと一緒に食事したり、学校に通ったり、一日の出来事を話したり……そんな当たり前のことが毎日新鮮でした。きっと大切なものは全部姉様からもらったんです。私という人間は姉様がいなければ成り立たない。でもそれと同時に気づいたんです。逆にそれは姉様から大事な物を奪っているんだって」

 そんな天華の背中を見て育った琴華だからこそ、ある日、気づいてしまったのだ。

 与えられているということは、同時に相手から奪っているという事実を。

 自分という存在が満たされていくほど、逆に天華の時間を吸い取っていく。

 そんな風に考えるようになってしまった。

「そう考えたらせめて。今までもらった恩を少しでも返せるように。今度は私が役に立つ番だ、って思ったんです。だから頑張ろうって。姉様の負担にならないように、強くなろうって。弱音を吐かずに仕事も手伝って。姉様が望む理想の妹を目指してきました」

 琴華は今日まで懸命に頑張ってきた。今まで自分が奪ってきた時間を、少しでも返していけるように。今までかけてきた苦労や心配を、少しでも軽減できるように。

 必死に、懸命に。いつも遙か遠くから見てきた、憧れの背中に近づけるように。

 いつの日かその隣に並び立てるように。比肩しても恥ずかしくない存在になれるように。

「でも――それも結局は、琴華の独り善がりだったんです。私は無力感から逃避したくて、背伸びしてただけ。姉様の足手まといにしかなっていない自分が、どうしても許せなかったから。自尊心を必死に守ってるだけで、本当は姉様のことなんて考えてなかったんです」

 それでも彼女は再び気づいてしまった。姉のためと銘打っておきながら、それは自身の矮小な劣等感を払拭したいがためだったということを。

「アイツに言われて、ようやく気づきました。そういう立ち振る舞いが、逆に姉様に心配をかけていたなんて、思いもしなかった。本当、琴華は駄目な妹です……だから嫌われても仕方ないって、自分でもそう思います」

 あはは、と涙声で力なく笑う琴華。そんな自虐めいた告白からは、自らの不甲斐なさに対する嫌悪感や、天華への罪悪感といった感情がありありと感じられる。

「でも……それでも――」

 しかし彼女は、言葉を続ける。

「琴華は、姉様が、好きです! だから嫌いに、ならないで……ッ!!」

 嗚咽を漏らしながら、琴華は震える声で叫んだ。

 受話器の向こうでは、おそらくグチャグチャに歪んだ顔で、涙を零しているのだろう。

 それはずっと昔から心の奥底に秘めてきた想いで、今まで言うことができなかった心からの言葉だ。図々しくて、高慢で、どこまでも自分勝手なワガママ。

 口にすることすらおこがましい、最低の懇願。少なくとも琴華はそう思っていた。

「――っ、ひっく……お姉ちゃんに嫌われ、ちゃったら、琴華、生きてけない、よぉ……」

 弱々しく震える声が、受話器越しから聞こえている。

 自分のために人生を捧げてきた人間に対し、嫌いにならないでくれだなんて厚顔無恥にも程がある。琴華もそれは分かっている。

 でもこれが彼女の本心なのだ。誰よりも大切で、誰よりも愛している最愛の姉。

 彼女に嫌われてしまったら、もう自分には生きる価値など存在しない。

「……馬鹿ね」

 琴華の想いを聞いて、天華は静かに呟きを漏らした。

 その顔は穏やかで、口元には微笑を浮かべている。

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