第三章

第12話アンデット×トレーニング 

「おはようございまーす」

 時刻は翌日の午前八時三十分。始業の三十分前。

 会社に出勤してきた久遠はドアを開け、朝の挨拶をしながら事務所の中へと入っていく。

「あら、おはよう久遠くん。早いわね」

 事務所の中に入ると、天華はデスクの前に腰掛けながら珈琲を飲んでいた。

 彼女は事務所内に入ってきた久遠に気づくと、顔を向けて微笑混じりに挨拶を返した。

「初日は余裕を持って出勤したかったんで」

「良い心がけね。感心感心」

 天華は鷹揚に笑いながらうんうんと頷く。出勤路もうろ覚えだったので、万が一にでも迷ってしまう可能性を考慮して早めに家を出た久遠だったがそれが功を奏したらしい。

「そう言えば、今日はどんなことをすればいいんですか?」

 まだ始業時間にはなっていないが、久遠は天華へ問いを投げかける。

 紆余曲折の末、社員として働くことになったが、具体的な業務内容はまだ触れていなかったからだ。

「今日から一ヶ月、久遠くんには研修に参加してもらいたいの」

「研修、ですか?」

 天華の言葉を聞いて、それは初耳だと久遠は首を傾げる。

「入社する以上、この会社がどんな仕事をしてるか知ってた方が後々で便利でしょう?」

「え……あ、はい。まあ、それは確かに」

 会社の根幹に関わってくる事務仕事をする上で、業務の内容を知っておくのは必須とも言えることだ。天華はまず久遠に、それを学んで欲しいのだろう。

「じゃあ早速、今日は親睦を深める意味で、琴華と一緒に現場へ行ってもらえる?」

「なッ――」

 しかしにこやかに続けられた言葉を聞いて、久遠は思わず引きつった表情で声を上げた。

「も、もちろん、天華さんも一緒……ですよね?」

「ん? いいえ、アタシはちょっと別件で片付けないといけない仕事があるから、二人で行ってきてくれるかしら。ああ、もちろん送迎はさせるから足の心配はしなくていいわ」

 依然として引きつった表情を浮かべて、おそるおそるといった調子で問いかける久遠。

 しかし、天華は久遠が何故そんなことを聞くのか分からず、小首を傾げたあとに補足するような言葉を付け加える。

「いやいやいやいや――それはマズイですって……だって俺、あいつに何故かメチャクチャ嫌われてますし。二人きりになったら、なにされるか分かりませんって!」

 一向に状況を悟ってくれない天華にしびれを切らし、久遠は必死の形相で言葉をまくし立てる。天華はそんな久遠を見て、キョトンとした表情で見ていた。

「そんなことないわよ。だって昨日は、あんなに仲良かったじゃない?」

「あれをどう見たら、仲良く見えるんですかッ!?」

 的外れな天華の言葉に久遠は慌ててツッコミを入れる。

 昨日から幾度もなく文字通り殺されている身としては、酷く心外な言葉だった。

「だって、琴華がアタシ以外の人と話してるって珍しいし。まあ、口が悪いのは照れ隠しみたいなものよ」

「あの態度には、微塵も照れなんて入ってなかったような気がしますけど……」

「大丈夫大丈夫。あの子って本当に嫌いな人間とは、会話すらしようとしないし」

 あくまで妹びいきの天華は、鷹揚に笑いながら言葉を続ける。

 照れで殺されるなんてどんなツンデレだ、と久遠は内心でツッコミを入れる。

「琴華は昔から、アタシにベッタリでね。今まで二人で暮らしてきたから、親代わりのアタシに懐くのは仕方ないんだけど……時々、心配になるのよ。このままでいいのか、って」

 天華はどこか陰りのある表情を浮かべて、独り言のように言葉を漏らす。

 その顔はどこか物憂げで、本気で琴華のことを案じているのが久遠にも見て取れた。

「今は良いのよ。まだアタシもいるから、あの子も守ってあげられる。でも、こんな仕事をしてれば、自分だっていつ死ぬのかも分からないでしょ? だから、琴華には一人で生きていけるようになって欲しいの。大きなお世話かもしれないけどね」

「天華さん……」

 天華はどこか遠くを見つめながら言葉を続け、最後に冗談っぽく微笑む。

 しかしその言葉には一切の偽りもなく、琴華に対する愛情がありありと感じられた。

 確かに二人だけの姉妹と考えれば、琴華の過激な行動や言動にもある程度は納得できる。

 ここに来て久遠は二人のことを少しだが、ようやく理解できたような気がした。

「それにあの子、普段はアタシに遠慮してワガママとかも全然言わないの。聞き分けが良いのはありがたいけど、姉としてはちょっと心苦しいのよね。仕事とかも手伝ってもらったり、色々と我慢もさせてる身としては、もう少し頼ってもらえると嬉しいんだけど」

 苦笑混じりに言葉を続け『これじゃ、姉失格よね』とどこか寂しそうに呟きを漏らした。

 それも一瞬のことですぐに元の調子に戻った天華は、軽く謝って会話を再開する。

「愚痴みたいになってごめんなさいね。だから久遠くんさえ良ければ、琴華と仲良くして欲しいの。年も近いしなんとなくだけど、キミとなら琴華も打ち解けられるんじゃないかな、って思って。きっとあの子にとって必要なのは、自分と対等な友達だと思うわ」

「はは、そりゃ買い被りすぎですって」

 自分に寄せられた期待を受けて、久遠は苦笑混じりに肩を竦める。

「……まあ、でも分かりました。俺でよければ、少しは頑張ってみようと思います」

「ありがとう、久遠くん。公私混同しちゃってごめんなさいね?」

「いえ、気にしないでください。俺だって、このままじゃ嫌でしたからね」

 冗談っぽく答える久遠を見て、天華は破顔一笑したあとに申し訳なさそうに謝罪する。

「よし、それじゃ――頑張ってみますか」

 天華に気にしないで欲しいと言うと、久遠は自らを鼓舞するように意気込んでみせる。

 こうして、久遠のヘブンフラワーズでの研修が始まったのだった。


「遅い。愚図。馬鹿。死ね。なにやってたのよ? 初日から遅刻なんていい身分ね」

 琴華は久遠の姿を発見すると開口一番、不機嫌さを隠そうともせずに吐き捨てるように言い放つ。眉は忌々しげにつり上がり、口は苛立ちによりへの字に歪んでいる。

 切れ長の目は呆れを孕んで半眼になっていて、眉間には深いしわが刻まれていた。

 その表情からは少なくとも好意の類いは感じられず、率直に言えば琴華は怒っていた。

 天華から迎えの車がやって来る場所を教えられた久遠は、すぐにそこへ向かった。

 しかし、そこには既に琴華の姿があり、慌てて駆け寄って行くも先ほどのように出鼻を挫かれてしまったのだ。

「あー、悪い。待たせちまったよな」

「新入りのくせに先輩を待たせるとか、アンタ仕事を舐めてんの? 普通、三十分前行動が当たり前でしょ」

 バツが悪そうに苦笑を浮かべながら謝罪する久遠だったが、琴華は依然として辛辣な態度で久遠をなじり続けていた。

「あ、はは……今日は最初、会社の方に顔出してたから、これでも急いで来たんだぜ?」

「そんなの理由になるわけないでしょ。昨日の時点で、今日はなにをするかとか、予め聞いときなさいよ。アンタは自分で考えて動けない指示待ち人間なわけ?」

 久遠としても今日のことは前日に告知されていなかったので、自分に落ち度はなかったと引きつった笑みを浮かべながら説明しようと試みる。

 しかし、琴華は知ったことではないと、有無を言わせない言葉で一刀両断した。

 久遠の愛想笑いも、ここに来て完全に凍り付いてしまう。

「申し、訳……ありませ、ん……でし、った……ッ! 以後、気を付けます……ッ!」

 取り付く島もない琴華の横柄な態度に、久遠は歯を食いしばりながら必死に怒りを堪えた。怒りを臨界点で止め、ぎこちない動きながらも頭を下げて謝罪する。

 昨日までに久遠なら年下の女子にここまで馬鹿にされたら我慢も限界だったが、天華にあそこまで頼み込まれた手前、こんなところで期待を裏切りたくはなかった。

「次はないから。せいぜい姉様に見限られないよう、死に物狂いで馬車馬のように働くのね。ま、私は微塵も期待なんかしてないけど」

 琴華はハンッと小馬鹿にするように鼻を鳴らして、口元を吊り上げながら嗤う。

「(やっぱりコイツ、可愛くねぇぇぇ――ッ!!)」

 散々な言われように心の声で憤る久遠だったが、表面上は引きつった愛想笑いをどうにか張り付かせてこの場をやり過ごす。

 迎えの車がやって来るまで、久遠はひたすら琴華の罵倒を甘んじて受け続けるのだった。

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