あやかし③

 その日は、梅雨の晴れ間と呼ぶにふさわしい快晴だった。天気予報ではこれから午後にかけて下り坂らしいが、今の時点でその気はまったくない。

 「……傘持っていくか。一応。」

 私はリビングの窓から外の様子を眺めてため息交じりに呟いた。それから朝ご飯を食べるのにひとりテーブルに着く。

 両親は共働きなので、もうとっくに家を出ている。だから朝起きてリビングに行くと、食卓にラップのかかった食事と簡潔な挨拶が書かれたメモ用紙がある。それは昔からのことだし、特に寂しいと思ったことはない。ただ少し言わせてもらうなら、いい加減小さかったころの私が好きだったキャラクターをメモの端に描くのはそろそろやめてほしい。もうそんな歳でもないのだが、私が大きくなってからはほとんど家族で出かける暇もないので、なんだかんだと両親の中の私は幼いころのままなのかもしれない。温め直した味噌汁を飲みながら、私はそんなことを思った。

 食事を終えると、私は家の中をぱたぱたと走り回り、手早く朝の支度を済ませる。きょうだいもペットもいないので、響くのは自分の立てる物音だけだ。時間割も確認したし、忘れ物もない。幸先は良さげだと思いつつ玄関へと向かった私は、傘立てに目をやって……そこで己の失敗に気がついた。

 「あ……傘がない……?」

 昨日学校に行く時点では持っていた。だが、ここにないということは学校に置いてきたか、昨日立ち寄った〈六角堂〉に置いてきたかの二択しかない。

 「はぁ……マジか…………。」

 前言撤回だ、幸先はあまり良くなかった。私は肩を落としてため息をつくと、気を取り直して家の扉を押し開けた。

 その瞬間、梅雨特有の蒸し暑い空気感がむわっと身体にまとわりついてきた。それが実に不快で、私は顔をしかめる。早くもしけっぽくなった制服が肌に貼りつくようでとても気持ちが悪い。

 「……これなら、まだ雨がひたすら降ってもらってたほうがいいな。」

 まあ、天気に文句を言ったところで何が変わるわけではないのだが。

 今は底抜けに晴れている空を見上げ、私はまたひとつため息をついたのだった。



 バスに乗って学校の最寄り駅まで行き、そこからさらに学校まで歩く。傘立てに傘があることを祈りつつ歩いていた私だったが、はたして胸中の嫌な予感は的中した。

 やはりというべきか、そこに私の傘はなかった。実用性を考えて吟味した骨が折れにくい16本傘なので、なかなか他人と被ることもまずないし見落としようがなかった。

 「……さて、困った。」

 このまま雨が降らなければ問題がないのだが、最近の天気予報はよくあたる。しかも先日折り畳み傘が壊れたこともあって、予備もない。そこそこピンチである。

 私が傘立ての前で仁王立ちになってうんうんと唸っていると、不意に背中から声をかけてくる人がいた。

 「……何が困ったの?」

 振り返ると、そこにはひとりの背の高い男子生徒が立っていた。どことなく気怠い雰囲気の漂う彼は、吉川知哉よしかわともやくん。クラスは隣だが1年の頃から委員会が同じで、顔を合わせれば何かと話が弾むという珍しいタイプの男子だ。そもそも男子とはあまり話さない私にとっては、唯一話せる男子と言っても過言ではない。

 「あ、おはよ。」

 「……ん、はよ。」

 短い挨拶を交わして隣に立った吉川くんは、片耳に挿していたイヤホンを外した。私はその仕草を眺めつつ、彼に尋ねる。

 「今の聞いてた?」

 「……わりと聞こえた。」

 吉川くんは頷くと、片手にイヤホンを握ったまま傘立てを指差して私を見下ろす。特にスポーツをやっているわけではないらしいが、隣に並ばれると余計に背が高く感じる。……贅沢なことだとは思うが、本人はそこそこ高身長であることを気にしているようなので、いつも口には出さないのだが。

 「……傘でもパクられた?」

 私はその問いに首を横に振った。

 「いや、昨日行ったお店に置いてきちゃったんだ。学校にないならあそこしかないんだけど……。」

 眼鏡を押し上げつつ、早くも今日何度目かのため息をつく。

 このまま雨が降って、一度止んでくれれば文句はないのだ。それなら〈六角堂〉は営業条件に当てはまる。問題はこのまま雨が降らないことなのだ。

 『ゆめゆめ“雨上がりの黄昏時”以外にこの店に入らないことだ。』

 あんな意味深な忠告をされてしまった手前、ほいほいと行けたものではない。それに、あやかし云々は別にしても、白沢さんのあの目は冗談を言っているようには見えなかった。

 どうしたものかと考えこんでいると、吉川くんが不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる。

 「……どうして迷ってるの?わかってるならとりに行けばいいんじゃない?」

 その質問は実に当然だ。あの特殊な店の事情を知らなければ、普通は誰しもそう思うだろう。

 「あー……まぁ、そうなんだけど……。」

 私がどう説明しようか躊躇っていると、助け船は吉川くん自身が出してきてくれた。

 「……もしかして、定休日?」

 「あぁ、そうそう。そうなんだよ。」

 とっさに乗ってしまった。内心は、あながち外れというわけではないがあたりでもない複雑な気分だったが、ひとまずそれで詳しい説明を回避できたことにほっとする。

 吉川くんのほうもそこから突っ込んでくることもなく、ふぅんと相槌を打つにとどめる。

 彼はイヤホンをもう一度耳に挿すと、おもむろに隅のほうにある傘立てを指差した。見れば、ひときわビニール傘の多い傘立てだった。もう何年も学校に置きっ放しにされているような、所在不明な傘を1カ所に集めたのだろうかと思っていると、吉川くんが口を開いた。

 「そこの一角……ほとんど俺のビニール傘だからアレなら適当に使っちゃっていいよ。」

 さらっとすごいことを言われた気がする。私は素直なお礼の言葉よりも先に疑問を口にせざるを得なかった。もう性分というものだ。

 「はい、ちょっと待とう。とてもありがたいんだけど、ひとつだけ言わせてもらっていい?……なんでこんな本数一人で?」

 「雨の日ごとに買ってて。俺、いつも傘忘れてくるから、駅で買ってきてたらいつの間にかこんなに。」

 それは当たり前だ。吉川くんはしっかりしているように見えてこういうところがとても謎な性格をしている。つかみどころがないというか……良く言えば人はそれをミステリアスとでも表現するのだろうが。

 聞けばこの傘立て、半共用傘置き場みたいになっているのだという。たまに先生もこっそりと使っているのを見たことがあるくらいだそうで、もはや暗黙の了解を得ているらしい。

 淡々と説明してくれた吉川くんに私はしばし呆気にとられた後、くくっと笑った。香や夕葵も大概何をやらかすかわからないきらいがあるが、彼も相当だ。

 「……ありがとう。そういうことなら、使わせてもらおうかな。」

 ひとしきり笑ってお礼を言うと、吉川くんはかすかに笑って頷いたのだった。



 そして、天気予報はその日も見事に的中したのであった。

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