あやかし④
しとしとと雨が降る。
降り始めて間もないこともあってか、また路面には水たまりはできていなかった。ここ最近は急な雨続きだったこともあって備えていたのだろうか、往来には荷物を雨除けに使って近場の建物に駆け込む人の姿はほとんどなかった。
私はというと、いつもとは勝手が違うビニール傘の視界の開放感と華奢なつくりに違和感を覚えていた。周りが見えるのはありがたいが、風で煽られれば一発で使い物にならなくなってしまいそうだ。
そして、吉川くんの傘を1本借りてきたのはいいものの私の足は結局〈六角堂〉に向いてしまっていた。忘れてきた場所がわかっている分、気になって仕方がなかったのだ。
(……傘をとりに来た程度で怒られたりしないよね。)
いくら何でも、白沢さんがそこまで短気とは考えたくない。しかし、あの白沢さんの言葉が冗談半分とも思えない。
私はため息をついて、それから首を振って考えを振り切った。あればあったで、スッと持って帰ってくればいいだけの話だ。
内心でそう自分に言い聞かせながら歩くことほどなく。たどりついた〈六角堂〉の軒下には、立てかけたときと寸分違わぬ様子で私の傘がひっそりと佇んでいた。
やれやれと思いつつそれを掴む。放置されていた傘の持ち手は存外ひんやりとしていた。
ふと、誰かに呼ばれた気がして顔を上げる。そこには固く閉ざされた〈六角堂〉の引き戸があるだけだ。近寄ってみるも店内は真っ暗で、見えるのは磨りガラスに映った店内をのぞき見ているひとりの不審な女子高生だけ。やはり開いているわけもない。背後で聞こえる雨音だけが妙に大きく聞こえ、それがどうしてかそのときは不気味に思えた。
帰るつもりで踵を返す。そして、数歩進んだそのときだった。
不意にがたん、と物音がした。驚いて振り返れば、つい数秒前にはぴったりと閉じていたはずの引き戸が細く開いていた。
「……え?」
背筋が寒くなる。怪異の類いは耐性があるはずなのだが、実際目の前で起こると心臓に悪いどころの話ではなかった。ばらばらと傘を叩く雨音ばかりが嫌に大きく聞こえ、それがより一層不気味な雰囲気を助長する。
私はしばしその場に立ち尽くして、隙間の奥を凝視していたが、やがて心を決めてそちらに一歩踏み出した。怖かったが、ここで放っておくことははばかられた。
差してきた傘を閉じて、自分のそれと隣り合わせで壁に立てかける。気づけば、引き戸にかける手が少しだけ震えていた。
からからと戸を開けて、敷居を跨ぐ。雨天のせいなのか、店内はいつもよりずっと暗く感じた。
「……お邪魔します……。」
抑えたはずの自分の声もやけに大きく聞こえる。かつん、と靴底が床を叩く音と、自分の呼吸する音ばかりがその場に響いた。まるでこの世界に自分しかいなくなってしまったのではないかと柄にもないことを錯覚するくらい、店内には何の気配もなかった。
一歩ずつ踏みしめるように歩みを進める。普段ならば私の声に気がついた白沢さんが声をかけてくれるはずだ。しかし、あの人はこういうときに限って出てきてくれない。
「白沢さん……?」
耐えかねて名前を呼んだときだった。
不意に、ひやりと足元を何かが駆け抜けていく感覚がした。すきま風ではない、妙に生々しいその感覚に私は驚いて数歩後退った。
「ッ───!?」
その拍子に背後にあった本棚に盛大に肩をぶつける。がたん、と本棚は大きな音を立てて、本が何冊か床に落ちた。
「な、なに────」
するすると手脚に目には見えない何かが絡みついてきて、私はあっという間に身動きがとれなくなった。蛇が這うような、獣の舌で舐められているような、背筋がぞわりとする感覚が、徐々に上へ上へと這い上がってくる。
えたいのしれないものに襲われているという本能的な恐怖に声も出せずに、私はただぎゅっと目をつむるしかなかった。
そして、その場に私がよく知る声が響いたのはそのときだった。
「────戯れもそこまでになされよ、土蜘蛛殿。」
普段とは異なる雷鳴のような声。次いで、ふわりと私に頭からかかる布。見ればそれは、たまに白沢さんが羽織っている羽織り物だった。鉄紺の羽織も、ほぼ灯りのない店内では闇を写しとったような黒に見えた。
私が羽織を掛けられると同時に、波が引くように今まで手脚に感じていた感覚も消えていく。そして、からん、という下駄の音がすぐ近くで鳴ったと思ったら、目の前には見慣れた背中があった。
「……白沢さん……。」
私の声に、彼はちらりと振り返る。その顔に笑みはなく、目の錯覚だろうか、切れ長の瞳は鮮やかな藍色に見えた。
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