事の発端
さて、ここであらかじめ弁明しておくが、私は初めから白沢さんと舌戦をかわしていたわけではない。これでも一応目上の人に対しての礼儀というものはわきまえているほうだと自負している。
それが、どうしてこうなってしまったのか。
その決定打となったのは、私が〈六角堂〉を知ってしばらく経ったある日のことだ。五月特有のすっきりと晴れ渡る日が長く続き、その日は久しぶりの雨上がりとなった。
(うーん……なんとなく来てみたけど、入りにくいなあ……。)
私は何度目かの来店に尻込みをして、店先で延々と引き戸に手をかけるかどうかで悩みまくっていた。今では遠慮も何もなくなったが、このときは来店回数もほとんどなかったのだ。勝手知ったる常連客には程遠かった。
(そもそも来てみたはいいけど今日が定休日とかいうオチはないよね?)
だからこそ、今となってはどうでもいいことで悩んでいたのだが、それは唐突に引き戸を開け放った主の登場で幕引きとなった。
「やれやれ……いつまでそうして突っ立っているつもりだ?」
変わらず古臭い眼鏡をかけた白沢さんは、やや呆れたような、痺れを切らしたような表情を浮かべていた。私は何と返したらよいのかわからず、二、三度口をぱくぱく開閉した後、正直に答えた。
「あ、えっと……ちゃんとやってるのかわからなくて。」
「失礼な。ここは“雨上がりの黄昏時にしか開かない”古書店なんだ、条件がそろえばいつだって開いている。」
憶えておきたまえ、と言って、白沢さんは奥に引っ込んでしまう。まだ白沢さんのペースがわからなかった初々しき頃だったので、私は釈然としないながらもその後に続いて店内に足を踏み入れた。
白沢さんは無駄のない所作で一段高くなった土間にあがると、そこに備え付けてあった囲い机の前に腰を下ろした。あの囲い机は何というのだったか……時代劇でよく目にする、あの机は。
「番台だ。」
「あ、そうそう番台……え?」
ついつい納得しかけた私は、頭の中の疑問を見透かしたような一言を放った白沢さんにぎょっとして彼の顔をまじまじと見た。
「えっ?今私何も言ってませんよね?」
「ああ、君の視線がうるさかったから答えたまでだ。満足かね?」
「はあ……。」
とにかく、この時点で白沢さんが果てしなく面倒くさそうな人物であることはよくわかった。仕方なく、私は挨拶をしてみることにした。何を思ってそうしようと思ったのかは、今では自分でもよくわからないが。
「えっと……ご無沙汰してます……?」
彼は既に書物に視線を落としていた。そして、そのページから目を離すことなく応じた。
「そうだな。てっきり、君はもう来ない部類の客と思っていた。」
「それは……雨が降らなかったんですもん。」
私の言葉に、白沢さんは初めてちらりとこちらに目を向けてきた。それから、小さく微笑む。なまじ顔が整っているから様になって見えるのだが、それも次の瞬間放たれた言葉で見事に帳消しとなった。
「まあ、それも理由の一因ではあるだろうが……本当のところ、来にくかったのだろう?先ほどからそこの戸を開けるのに半刻かけていたくせに。」
その時の白沢さんの顔は、たぶん一生忘れない。……あの、ちょっと薄ら笑って意地悪そうに書物越しにこちらを見てきたあの顔は。今でも思い出すと、あの古臭い眼鏡を拝借してぺきっとやりたくなる。
私はその言葉に絶句した後、恥ずかしさで顔が火照るのを感じずにはいられなかった。
「なっ……き、気が付いていたならもっと早くに開けてくれればよかったじゃないですか!意地悪ですね!」
「別にそうしてやる義理はなかったのだが。声の一つでもかけてやらんと日が暮れてしまいそうだったからな。」
何たる性格の悪さか。私はその無駄に綺麗な顔に拳の一つでも叩き込んでやろうかと本気で考えたが、寸前で理性が強力なブレーキをかけてくれたおかげで何とか思いとどまる。代わりにひきつった笑顔を浮かべて言ってやった。
「……っ、白沢さんって無駄に顔がいいだけで性格はすこぶるつきに悪いんですね。よーーーーくわかりました。」
思えば、この瞬間が今の白沢さんに対する私の態度が確立した瞬間だと言えるのかもしれない。対する当人はというと、少し眉をひそめてぱたんと書物を閉じた。
「他人を勝手に顔だけの存在のように言わないでくれないかね。それに、たった数回しか会ったことのない人間の娘に私の性格を決めつけられるのはいささか心外だな。」
「では、ご自分はもっといいを性格しているとでも?笑止千万ですね。」
私は腕を組んで真正面から言い切った。
「いい性格をしているのであれば、まず他人が店の前で悩んでいるのをにやにやしながら見てませんから。」
「待ちたまえ、他人を変質者みたいに言うな。」
即ツッコミをいれた白沢さんは、そこで大きなため息をついて眼鏡を押し上げた。私が盛大に噛みついてきたのが意外だったらしく、やれやれと肩をすくめて言った。
「……君は見かけによらず面倒な類いの人間のようだね。よくわかった。肝に銘じておこう。」
「最高に面倒そうなあなたに言われたくないんですけど。」
私は仏頂面でそう返したのだった。
しかし、今もその“最高に面倒な”店主がいる古書店に通っているのだから、私も大概なのかもしれない。それくらいは、認めてもいいとは思っている。
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