あやかし①
あやかし。あやしのもの。
“あやし”を辞書で引いてみると、「奇し、怪し」と書かれている。第一義的には霊妙で神秘的な、人知を超えた不可思議なものに対する畏敬の念や驚きを示す言葉。これが転じて、現代ではもっぱら奇妙とか、疑わしいとかいう意味になったらしい。
(ま、あながち間違いじゃないか……。)
私は頬杖をついて、開いたばかりの辞書のページを指先で撫でた。
今は4限目。午前中最後の授業からか、はたまたこの授業が退屈だからなのか、そっと教室に視線を巡らせると、何人か寝落ちしている姿がちらほら見える。まあ、この授業はどこにコマ割りがされていようと眠くなると評判なのだが。先生自体はユーモアがあって面白い人だが、それが授業のやり方に反映されるとは限らないのが哀しいところである。
まあ、それはさておき。私は今一度あやしの項目を眺めた。ちなみにこの単語は今やっている教科書の内容とは何の関係もない。ただの個人的興味である。
(神秘的で霊妙……ねえ。)
たしかに、白沢さんは見方によってはそう見えなくもない。特に最初に出会った時の印象はむしろこちらに近いかもしれない。あのときの彼は、少しだけ人とは違うひんやりした部分があった……ように感じた。
(……でも、そうはいっても白沢さんがあやかしっぽいことしてる場面に出くわしたことないしなあ。)
だからだろうか。正直なところ、私は白沢さんを“あやかし”と思えないでいる。
「……―――は、そうだなあ……八坂。」
いきなり名前を呼ばれて、そこで私は物思いから現実に引き戻された。ぱっと顔をあげると、既に数人が黒板の前に出てきて各々が指定された教科書の一文を書き記しているところだった。この先生の授業スタイルだ。幸いなことに前がいたので、範囲は訊き返さずとも察しがついた。
やれやれと思いながらノート片手に立ち上がったところで、ふと何やらすーすーという音が聞こえた。割合盛大なそれは私以外のクラスメイトも気が付いたようで、ほぼ全員の視線が音の中心に集中する。当の本人は辞書を枕に、実に健やかに寝ていた。
「…………はあ。」
先生の大きなため息がひとつ、教室に零れた。私は先生の雷3秒前を察して、内心で大きなため息をついた。
「――――いい加減起きろ!藤森!」
それは、私の友人の名前だった。
昼休み。
1日の折り返しともいえる長い休息時間を、自分の机を友人たちと囲むのが恒例となっている私は、今日も例に漏れず同じメンバーの顔を拝みながら弁当を広げていた。
「いやあ、よく寝たよー。」
悪びれた様子もなくそう言って笑ったのは、先ほど雷を食らったはずの友人、藤森夕葵だった。背が小さくていつも何かを食べているので、周りからは「小リス」と呼ばれている。ちなみに、今は特大サイズのメロンパンを食している。バターの濃厚な香りと甘い匂いが入り混じって、まだ自分の弁当も食べきっていないのにおなか一杯になりそうだ。
「よく言うよ……夕葵は頭いいんだから、もっとまじめに勉強すればいいのに。」
私が言うと、夕葵の隣で特大のカフェオレを飲んでいたもう一人の友人、浅井香が激しく首を縦に振った。カフェオレの香りとメロンパンの香りが至近距離から襲ってくる。もうなんだか胸いっぱいだ。
「そうだそうだ!!私なんか毎回毎回勉強してもテスト苦しんでるっていうのに!!」
「香のアレは勉強とは言いません。一夜漬けというのです。」
「たま、ひどい!!」
私と香のやり取りに笑った夕葵は、メロンパンの向きを変えると再び攻略を始める。昼休みが始まって10分そこらしか経っていないのに早くも半分食べきっているのにはほとほと感心する。
「いやいやー、いくらなんでもたまきちには敵わんよー。」
「私は部活やってなくて時間あるからっていうのが大きいんだけど。」
「そこがたまきちのすごいとこなんだってばー。少なくとも私はコツコツ努力するの苦手だからー。」
「さすが、陸上部の短距離エースなだけあるね。」
香が横合いから茶化しに入る。夕葵はそれを聞いてしばらく笑顔で黙り込んだ後、ふっ…と悪い笑みを口の端に刻んだ。
「かおるちん……今度から英語教えてやらないぞー?」
「え、やめ……ゆきぽん様……?」
青い顔でおそるおそる夕葵の顔色をうかがい始める香が面白くて、私は声をあげて笑ってしまった。それから、無事食べ終わった弁当をリュックにしまって立ち上がる。今日はこれから所属している委員会の活動があるのだ。
「それじゃ、図書館いってくる。」
「あ、委員会かー。了解ー。」
私は夕葵の軽いノリにひらりと手を振り、ふと窓の外に目をやった。
朝から降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。学校が終わるころには、〈六角堂〉も開店していることだろう。
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