第一五章 導火線
大陸暦九三八年五月一日、帝国樹立一周年記念日、その日はあいにくの曇り空だったが、帝都ジースナッハでは予定通り、帝国軍の観兵式が挙行されていた。ただし、「帝国軍」とは云っても特別な元首布告がないかぎり、元首を出した国以外から実戦部隊が観兵式のためだけに参加することはありえず、この式典は主催国が内外に国力を誇示する目的以外、さしたる意味を持たないのが現実だった。
エルマグニア連邦は一五〇年前に五ヶ国が条約を結ぶことにより成立した人工的な連邦国家である。それまでは戦争を繰り返していた経緯もあり、条約発効後もお互いを一〇〇パーセント信頼し合うことはなかった。確かに双方の国境線から兵力を引き上げたが、その代わり間諜の活動がより活発になった。
国境線の長さを考えれば、実質的に民衆の移動を遮る手段はなく、その中に平服姿で活動する間者が混じっていたとしても、だれも把握できない。いきおい各国為政者たちは、政治的、軍事的な機密の保持に神経を尖らせる結果となった。
その一方で、相手側に伝わることを前提として、各種パレードや式典等を開催する場合もあり、虚々実々の駆け引きが一五〇年にわたって繰り返されていた。当然、帝国軍の観兵式もその例外ではなく、会場にはベアヴォラーグ同盟、ラウスベイ大公国、ローライシュタイン大公国の間者が一般人を装って詰めかけ、情報収集を続けていた。
臨時に設置された壇上にはフォイエル・ドラス元首、レムハイル・ミルンヒック帝国長官、ハルツ・フェルドナー参謀総長など、帝国の重鎮が着座しており、その前を敬礼とともに帝国軍兵士たちが一糸乱れぬ姿で行進するさまは壮大な叙事詩の一節にも語られるほどの威容だった。
行進完了後、整列した兵士たちを前にフォイエル・ドラス元首が国威発揚の演説を行った。その後は指導者としての求心力を高めるため、帝都内を馬車に乗ってパレードする予定だったのだが、異変はこのとき起きた。
帝国軍兵士たちが解散し、それと同じタイミングで観衆たちも帰途に着き始めた矢先、絶叫が響いた。
「フォイエル・ドラス、死すべし! エルマグニアに独裁者はいらぬ─────ッ!!」
狂信的ともいえる雄たけびを上げて、平民を装った何者かが勢いよく走り出した。その男の手には剣が握られていた。観兵式がちょうど終わり、気が抜けた状態だったことも影響したのだろう。憲兵たちの反応は鈍く、テロリストはフォイエル・ドラスの目前に迫った。
その刹那、テロリストと元首の間に割って入った者がいた。ミルンヒック帝国長官だった。壇上で隣り合って座っていたからこそ、身代わりとなることができた。
凶刃は帝国長官の腹部に突き刺さった。鮮血が舞い、ミルンヒックはその場に倒れ伏した。すぐに身辺警護の衛兵たちがテロリストを取り押さえて、連行していった。男は引きずられながらもなお叫んだ。
「ローライシュタイン大公国よ、永遠なれ──────ッ!」
致命的ともいえる重傷を負った帝国長官はすぐさま救護班の元へと運ばれていった。
フォイエル・ドラスは呆気に取られている兵士たちを前に拳を振り上げて、絶唱した。
「今、ここでわたしの半身が志半ばにして傷つき斃れた。余人を以って代えがたい帝国長官の血が流されたのだ。なぜだッ! なぜ国家のために尽力を惜しまぬレムハイル・ミルンヒックがその命を投げ出さねばならなかったのか。それは、わたくしフォイエル・ドラスを生かすためであった。わたくしはここに誓おう! 偉大なるエルマグニア建設のため、この命を捧ぐと。
帝国長官の血は諸君の血でもある。国家のために尽くし、エルマグニアの礎となって死ぬことこそ諸君の務めであると知れッ! 帝国に勝利を!!」
兵士たちの間から自然発生的に巨大な呼号が巻き起こった。
「帝国に勝利を! 帝国に勝利を!」
その喊声はやむことなく響き続けた。
「うーむ、こういうやり方にはあまり賛同できませんなぁ」
ベアヴォラーグ同盟マグナー・ホルギン総裁はやや困惑の面持ちで眼前の人物に告げた。彼我二人だけの極秘会談なので、本音のやり取りをするつもりだったが、相手には上意下達の意思しかないように見受けられた。
そこはベアヴォラーグ同盟の総裁公邸応接室。純金製の文具、卓上置時計、金で角を覆った調度品が多いのはホルギンの趣味であり、壁には高名な画家が描いた人物画の数々が飾られていた。
同盟の総裁公邸は帝都ジースナッハと隣接する区画に建てられており、その敷地の周囲は高い石壁に囲われている。ジースナッハとの行き来は衛兵付きの専用扉で可能となっており、こういった結びつきの強さが他のランド三カ国からは「癒着」とみなされていたことも事実であった。
五月四日夕刻、帝国元首暗殺未遂事件から三日後に元首フォイエル・ドラスはマグナー・ホルギン総裁を訪ねて今後の方針を伝達したのだが、そこで冒頭の台詞が飛び出したのである。
「ほう、ホルギン総裁殿はどのあたりに不満を感じるのかね?」
ドラスは余裕に満ちた表情で尋ねた。
「いや、不満というわけじゃない。ただ、火のないところに煙を立てるようなやり方は後に禍根を残すのではないかと不安になっただけですよ」
「ふふん、総裁殿は今の生活に満足しているようだが、わたしは違う。大エルマグニアの建設という偉大な目標のために、いかなる手段も正当化されるのだ」
ホルギン総裁は嘆息とともにうなずいた。
「それで、今回の一件はどのように決着されるおつもりで?」
「うむ、帝国元首暗殺を企てたテロリズムの裏にはローライシュタイン大公国が扇動する偏狭な国家主義の動きがある。捕らえた実行犯がそう自白したのだ。ならば、テロを主導したローライシュタイン大公国に対して宣戦を布告するしかあるまい。この小国を制圧し、逆徒を根絶やしにする必要があろう。首魁は、そうだな、ローライシュタイン大公を処刑すれば、領民の反発は抑えきれなくなる。ならば、偏狭な国家主義に染まった軍の指揮官が暗殺の実行を指示したと証拠を突きつけ、その者を処刑するのがよいだろう」
フォイエル・ドラスがすでにそこまでシナリオを作り上げていることに、ホルギンは腹の底から恐ろしくなった。この男には絶対に逆らえない。帝国内で実質的にナンバー3の地位にあるベアヴォラーグ同盟総裁ですら、フォイエル・ドラスの権力の前には付き従うしかなかった。
「なるほど。で、暗殺の実行を指示した軍の指揮官に目星はついているのですか?」
「そう、それだが、参謀総長からたいへん興味深い報告が上がってきた。ローライシュタイン大公国には非常に卓越した能力を持つ女の指揮官がいるらしい」
「女?」
マグナー・ホルギンはそこにのみ反応した。
「その指揮官を降伏後こちらの傘下に加えられるのなら最上。だが、あくまでも頑なな態度を崩さないのであればテロの首謀者として処刑する。ハルツ・フェルドナーもその者がなびかないようであれば排除すべしと私見を述べていた」
「よくわかりました。して、その指揮官の名は?」
「確か、アーヤ・エアリーズと記されていたな ───」
五月一三日、ラウスベイ大公国の首都ラウスブルクにおいて、マティアス・ラウスベイ大公はエルマグニア帝国からの賓客を迎えていた。
「つまり、領内の帝国軍通過を認めるだけではなく、兵も差し出せと?」
応接室内にマティアスの情けない声が響いた。
「差し出せなどと高圧的な態度を示したことは一度もありませんぞ。わたしはエルマグニア帝国を構成する同志に対して要請しているにすぎない。そもそも帝国が出兵するのであれば、傘下の各国が共同歩調を取るのは当然のことでは?」
実質的な命令であるにもかかわらず、その男はオブラートに包んだ口調で、あくまでも物腰柔らかく協力を要請した。レムハイル・ミルンヒック帝国長官だった。一二日前、凶刃に倒れたはずの長官が今ここにいる。観兵式での一大事件はすでに多くの情報筋から各国首脳に伝わっていた。当然マティアスも知るところとなったので、この訪問前に使者がやってきたときにはたいへん驚いた。
半信半疑で客人を迎える準備を進め、そして当日、「88」から降り立った帝国長官を目の当たりにし、情報の錯綜ぶりを認めるしかなくなったのであった。
帝国長官はテロによる負傷が極めて浅いものだったと説明したが、周囲はその言葉を額面どおりには受け止めなかった。ただ、マティアスだけが無邪気に「まるで魔法で癒したみたいだ」と非現実的な感想を述べた。
帝国長官は「魔法」という言葉が出た瞬間ピクッと眉を動かしたが、だれにも気取られることなく、いつもの柔和な表情にもどった。
「我々はローライシュタイン大公国の国家主義者がテロを引き起こしたという明確な証拠を握っている。機密保持のため今はあきらかにできないが、しかるべき時期が到来したら開示されることだろう」
「・・・それで、帝国軍がローライシュタイン大公国を制圧した後、どういう裁きが下されるんでしょうか?」
マティアスの関心はすでに戦後処理に移っていた。
「それは偉大なる我らが指導者フォイエル・ドラス元首がお示しになること。わたしには何の権限もない。ただし・・・」
「ただし ───」
マティアスはゴクリと唾を飲み込んだ。
「元首選挙会議一日目の夜、提示したように、マティアス・ラウスベイ大公閣下にはローライシュタイン大公国解体後の人事権を全て委ねる用意がある。これは帝国長官としてわたしが約束したことであり、書面も発行済みだ」
「じゃあ、エリーゼたんをどうしようとぼくの勝手だよね」
このデブにはその程度の餌で十分だ、帝国長官の目が笑っていた。
「もちろん。大公位を剥奪されれば、ただの女。妾にでも端女(はしため)にでもすればいい」
「それは楽しみだなぁ♪ 妹のルージュたんもこの際いっしょに引き取ろう」
もはやマティアスにとって、ミルンヒックの要請は己の欲望を実現するための取引道具と化していた。ラウスベイ大公国にとっての重大な決断はこのようにいとも簡単に下された。
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