第一四章 テトラルキア 二日目

 四月一六日一〇時、テトラルキアの二日目が始まった。参加者は前日と同じフォイエル・ドラス、マグナー・ホルギン、マティアス・ラウスベイ、エリーゼ・ローライシュタインの四名。

 まず、マグナー・ホルギンが口火を切った。

「ローライシュタイン大公殿は前日、過去の元首選挙会議の資料を見たとたん、体調を崩された。わしとすれば、なにがそれほど影響を与えたのか、たいへん気がかりなところだ。お差支えなければ、ぜひその原因をご教示いただきたい」

 もっともな疑問だった。その場にいただれもがエリーゼの挙動の変化に尋常ならざる異変を感じ取ったからだ。

「いいえ、とくに理由はありません。ただ、歴代の元首選挙が決して形式的な投票に終わらず、そこにはさまざまな思惑が渦巻いていたのだと知り、少し怖くなっただけです」

「んっ、思惑が渦巻くとは?」

 ホルギンが尋ねた。

「はい。資料によれば歴代の元首選挙はほとんどの場合、三対二、もしくは四対一と票が割れています。全会一致はほぼありません。それでもなおエルマグニアが連邦として機能し続けたことにわたしは先人の叡智を感じました」

 エリーゼの言い回しは聞きようによっては強烈なアンチテーゼとなってフォイエル・ドラスの耳に届いた。しかしドラスはなにも発言しなかった。ただ、注意深くエリーゼの言動を観察し続けるのみだった。

「ふん、そんなことで一々驚いていてはランドの代表者など務まらんよ」

 ホルギンはエリーゼの言葉にまるで興味を失ったみたいだった。

「さて、議論を尽くしたとすれば、エルマグニア元首の正統性を再確認する信任投票の実施に移行する予定だが、よろしいかな?」

 ドラスの問いかけに対し、だれからも異議は出なかった。エリーゼの言葉通り、さまざまな思惑を秘めて、いよいよ信任投票が行われるのだ。


 一五〇年の間、使われ続けた投票箱が用意された。それは真鍮製で上から見ると五角形になっており、天板にたいへん細いスリットがあった。投票用紙は偽造を避けるため、同じ色彩が二度と出せない特殊紙が準備された。これに信任は「Yes」、不信任は「No」、棄権は「Abstention」と記すのだが、投票用紙が配られてから投票までの間、いっさいの協議が禁止とされた。談合、密約などを防ぐという名目である。各人が部屋の片隅の卓で記入を済ませたのち、無記名で投票する。開票はただちに行われて、結果を全員が確認する。

 エリーゼは投票後、マティアスを一瞥したが、なぜか彼は視線をそらし、まともに目を合わせようとしなかった。


 投票終了後、全員が見つめる中、議長のドラスが投票箱を横倒しにした。底面のふたを開けて、折りたたまれた投票用紙を開示する。結果は信任三、不信任一、フォイエル・ドラス元首が信任された瞬間だった。

 ホルギンとドラスが満面の笑みで握手を交わしている。一方、エリーゼは茫然自失。こんな結果になるとまったく想像していなかったたため、彼女の落胆は大きかった。だれが投票行動を変えたのか、一目瞭然だった。

 エリーゼがジロリとマティアスを睨みつけると、さすがにまずいと思ったか、マティアスは明後日の方角を向き、口笛を吹いて責任逃れに終始した。エリーゼとリックが立てた綿密な計画は実施に移されることなく瓦解した。


 一刻後、「フェデレーション」に戻り、テトラルキアの顛末をリックに話すと、エリーゼは放心したようにベッドに座り込んだ。その肩は小刻みに震えている。なんと声をかけていいのか分からず、リックが狼狽していると、エリーゼがぶつぶつ独り言をつぶやきだした。

「・・・あの豚男・・土壇場で日和りやがって ───」

 ふだんから気品のある態度を崩さない姉エリーゼがこんなに取り乱すとは・・・。それだけショックが大きかったのだとリックは無言で納得した。


 四月一六日正午、もはやジースナッハにとどまっている合理的な理由はない。むしろ、元首信任投票で不信任票を投じたローライシュタイン大公国の代表者に対しては、バイヤーオベルン大公国に示したと同様、一方的な元首布告が下される可能性さえありえる。

 今のエリーゼとリックにできることは急ぎローライシュタイン大公国へ戻り、ライゼルの動向を確認する、それしかなかった。

 あわただしく準備を整え、ローライシュタイン大公国一行はを帝都ジースナッハを後にした。城門を預かる官吏はなにもとがめなかった。まだ時間はある。帰って作戦を練り直そう、リックはそう自分をなぐさめた。


 「88」に乗って半日が過ぎた。日はとっぷり暮れ、もうしばらく走ったらどこかで野営の準備をしなければならない。まだ帝都の影響が強いベアヴォラーグ同盟の領地内なので油断はできない。リックが窓から外をながめていると、寝室に引っ込んでいたエリーゼがワインの瓶とグラスを手にネグリジェ姿でふらふらと応接室へ入ってきた。

「姉上、まもなく馬車を止め、野営の用意をしますので、そのままお待ちください」

 だが、エリーゼは寝室に戻らず、ドカッとソファに腰かけて、再びワインをあおるように飲み干した。あきらかに様子がおかしい。

「ウフフフ・・・ ライゼルが背き、今度はマティアスが裏切った。次はだれかしら。ザイドリック、あなたかもね?」

「姉上、なにを言っているのですか。わたしはあなたの弟。天地が逆さになろうと、あなたの味方です」

「リック・・・あなたはわたしの味方でいてくれるの?」

「もちろんです」

「じゃあ、キスして」

「えっ?」

「キスしてって言ってるの! 裏切り者だったら、できないでしょ!」

 メチャクチャな理屈である。とはいえ、酔わなければ耐えられないほどエリーゼの精神は追い込まれていたのだとリックには理解できた。

「はやくぅ、キスしてよぅ!」

 こうなってはもはやどうしようもない。リックは覚悟を決めて、エリーゼの隣に座った。香水とアルコールと体臭の入り混じった濃艶な女の匂いがした。

「リック、かわいいわたしの弟♪ うふふふ・・・」

 今度は笑い上戸だ。リックが真剣な眼差しで見つめているというのに、エリーゼにはそれが分からない。いきなり抱きつくと、リックの後頭部に両手を回して半ば強引に唇を合わせた。そのまま舌を絡ませて、長い間むさぼるようにディープキスを続けた。

 どれぐらい時間が経過したのか、エリーゼはようやく唇を離した。

「・・リック、あなただけはわたしの味方・・・それがよくわかった ───」

 そしてソファに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。

 リックはエリーゼを抱き上げて寝室へ運び、ベッドに寝かせてから退室した。懸案事項が多すぎて、リックの頭脳もパンクしそうだった。


 四月一七日になって、エリーゼの体調は相当に回復した。前夜の弟とのキスも酔いが引き起こした一時の過ちであり、しかも彼女はなにも憶えていなかった。リックは安堵して今後の戦略を精力的に打ち合わせた。

 フォイエル・ドラスが取るであろう次の一手、それはローライシュタイン大公国に対して苛烈なプレッシャーをかけてくることだと容易に予想できた。こちらとすればライゼルの身柄を確保の上、その証言を武器に闘うことも検討したが、帝国側が事実無根の捏造と主張すれば袋小路に迷い込んでしまう。いずれにせよ、相手の出方を見て対処するのが最善であるとの結論に達した。


 四月一七日夜、帝都ジースナッハを出発してから一日半が経過し、一行はついにベアヴォラーグ同盟とローライシュタイン大公国との国境線に到達した。ダーグナスリイト旧要塞を越えて自国領土に入ったところで、皆が胸をなでおろした。ここまでくれば一安心といえるので、二日目の野営の準備に入った。


 リックは護衛の兵士たちとともに焚き火を囲み、食事を取った。満天の星空が前途の不安を少しだけ癒してくれた気がした。

 そこへ蹄の音が近づいてきた。自国領のため、敵襲を想定していなかったが、甘かったのかもしれない。一同は身構えたが、その音はゆっくりでしかも単騎に聞こえた。まもなく、「リック様?」聞き覚えのある女の声が耳に入ってきた。

「アーヤなのか?」

 リックが問うたところ、相手は馬を下りて姿を現した。アーヤだった。強行軍のせいで泥と砂埃にまみれていたが、確かに彼女に相違なかった。

 アーヤは姿勢を正して「ジェネラル閣下! アーヤ・エアリーズ第六師団長、ただ今シュタインズベルクより帰投いたしました」と敬礼を捧げた。

「ご苦労! 疲れているところ申し訳ないが、シュタインズベルクでどのようなことがあったのか、どう処理したのか、大公閣下とわたしに至急報告してほしい」

 リックは国の行く末を左右するであろうこの一件の顛末を早期に確認すべきと考えた。


 「88」に乗り込んだリックとアーヤは応接室で出迎えたエリーゼとともにテーブルを囲んだ。アーヤは判明している範囲で事件の全てを時系列順にくわしく話した。対面で聞いていた二人がとりわけ激しく反応したのはライゼルの弟ルフトの件(くだり)だった。

 同い年だったこともあり、リックはルフトのことをよく覚えていた。幼時から一緒に学び遊んだ無二の親友であるルフトはとても聡明な少年だった。とくにその頭脳は卓越しており、将来は軍の参謀長か、高位の行政官に就くのではないかと予想された。しかし、どのような職を拝命することになろうとも、その前に誇り高き大公国の騎士であれ、と願う父マクシミリアンの命令は絶対だった。

 ルフトの葬儀でライゼルが悔し涙を流していた姿は今も印象に残っている。一七歳でたった一人の弟を亡くし、その翌年にはロ帝戦争で父親も失った。ライゼルの心中は察して余りある。もちろん、それで主君ゴットフリート・ローライシュタイン大公を手にかけた罪が消えるわけではないが、ライゼルの最後の願いだけは聞き届けてやろうとリックは姉に進言するつもりだった。

 そのエリーゼだが、一時の混乱状態を抜け出し、今は冷静に事の次第を傾聴していた。ライゼルの死に気丈にも動揺を見せず、最後まで聞き入っていたが、報告が終わるや、すっと立ち上がり、「一人で考えさせてください」とだけ告げ、寝室に向かった。君主として人前で涙を見せたくない、その最後の矜持が痛いほど伝わってきて、リックはなにも言えなかった。


 リックはアーヤとともに「88」を出た。

「ありがとう。アーヤ、おまえの働きがなかったら、状況はもっと複雑化していたことだろう。今後の見通しは決して明るくないが、やるべきことは見えてきた。それに、ドーラとラフィーの戦いぶりも見事というほかない。さすがアーヤだ。ひとを見る目がある」

「いえ、そんな・・・それにわたしは軍団長の身柄を確保するというご命令を遂行できなかったわけですし・・・」

「気にしなくていい。暗殺部隊がそこまで迅速に動くとはだれにも予想できなかった。だが、そんな命令をいとも簡単に出せる者が元首の座に就いている。まさしく“狼の時代”の到来だ」



 アーヤは甲冑を脱ぎ、平服に着替えてから、焚き火の前で遅い夕食を取った。まともな食事は二日ぶりだったので、体の芯に染み渡るような気がした。食事を終えたところで、強烈な睡魔が襲ってきた。過度な緊張感に支配されて丸二日、十分な睡眠をとらずとも動き続けられたが、任務を終えたことで本来の状態に返ったのだ。アーヤはその場に倒れ込み、そのまま泥のように眠ってしまった。

 リックはそのさまを見ていた。

────アーヤに無理をさせすぎた。

 胸を締めつけられるような思いがリックの心に去来した。


 アーヤは夢を見ていた。川原で息絶えようとしていた一五歳の少女を突然不思議な力が救い上げた。二本の力強い腕に抱かれて運ばれたあのときの記憶はアーヤの中にしっかり残っている。今、それと同じ感触がアーヤの体に伝わっていた。

 気がつくと、アーヤは「88」内、応接室のベッドに寝かされていた。窓から黎明の光が差し込んでいた。あまりにも心地よい眠りだったことから、途中一度も目覚めることなく朝を迎えたのだ。

 あわてて飛び起きたアーヤは急いで「88」の外に出た。そこには兵士たちの中に混じって野宿するリックの姿があった。まだ早朝なので、歩哨を除き全員が寝入っている。

 アーヤはリックの傍らにそっと歩み寄り、静かにかしずいた。

────リック様、わたしを認めてくださり、ありがとうございます。大好きです。決して叶わない想いと理解しております。でも・・・今だけはそばにいさせてください。

 アーヤはこみ上げる想いをぐっと抑えて、リックの足元にすがるように身を横たえた。そのままいつまでもリックの寝顔を見つめていた。

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