第一〇章 一時(いっとき)の休息

 大陸暦九三七年七月二一日付の元首布告にて、正式にバイヤーオベルン大公国領土はエルマグニア帝国へ三〇年間租借されることが決定した。新名称は西方直轄領ウエスタンステーツである。

 当初の約束通り、旧バイヤーオベルン大公はローライシュタイン大公国へ州知事として迎えられた。人の移動も制限されなかったので、旧バイヤーオベルン大公を慕い、かなりの兵士がローライシュタイン大公国へ移動した。近衛騎士団は団長ラドム・ゼン以下全員が随行した。かれらを基幹部隊として、ローライシュタイン大公国軍第七師団が編成された。師団長はユリエッタだった。

 ルージュはエリーゼに懇願して、フェスランキシュ王国よりローライシュタイン大公国へ帰還することを承認させた。五年間も妹に淋しい思いをさせてしまった罪悪感、ローライシュタイン大公国が以前よりも国力を増したという安心感から、エリーゼはそれを決断した。

 また、今回の功績により、アーヤは第六師団の師団長に任ぜられた。


 九月一日、ローライシュタイン大公国首都シュタインズベルクの中央に位置する大公宮殿イーグルライズの大広間「鷲の巣」にて、バイヤーオベルン“知事”就任を祝う宴が開催された。これまでのさまざまなしがらみを捨てて、だれもが虚心にパーティーを楽しんでいた。リックはここに集った仲間たちをだれでも大歓迎した。

 大きな歓声とともに、バイヤーオベルン知事夫妻、ユリエッタが会場に現れた、。知事夫妻は主賓らしく白の正装、ユリエッタは艶のある黒いドレスを着ていた。その姿はあまりにも神々しく、女性陣のため息を誘った。

 続いて、君主エリーゼ・ローライシュタイン大公が姿を見せた。ブルーのドレスはこの日のため特別にあつらえたものであり、髪飾り、ネックレス、ブレスレット、リング、いずれも大公家に伝わる最高位の逸品ばかりであった。

 かねてより「大公国一のクールビューティー」と賞賛されるエリーゼだが、この日は一段と美しさに磨きがかかっていた。リックは弟として誇らしい反面、その伴侶となる相手はたいへんだろうなという妙な感想も抱いた。

 続いて会場内を見回すと、ひときわ目立ったのがドーラだった。ライトグリーンのドレスに身を包んだ彼女は大柄だが、アスリートのような引き締まった体と抜群のプロポーションで男女を問わず羨望の眼差しを受けていた。

 テーブルに目を移すと、そこではルージュとラフィーがデザートの早食い競争に興じていた。「フッ」と笑ったリックは視線を動かし、壁際にアーヤを発見した。だが、それは「不自然」そのものだった。

 アーヤは赤いドレスをまとっていた。しかし胸元も背中も開きすぎていて品位が全く感じられない。アーヤは胸がかなり大きいほうなので、少し動けば露出しかねない状態だった。これではまるで娼婦が着るドレスである。しかもあかがね色の髪に赤いドレスという組み合わせは双方が打ち消し合うので、“禁じ手”のコーディネートであった。

 本人もそれが分かっているのか途方に暮れており、意図せず着ているようすがありありと感じられた。慎み深いアーヤの性格からして、こんなドレスを選択するとは考えられないので、そこになんらかの“企て”の臭いを感じ取ったリックは後日、執事長のシベリウスに本件を調査させた。“犯人”は簡単に割り出せた。パーティーに参加する予定の主だった女性陣に対して、ルージュがドレスを贈り、当日必ず着て来るよう命じたのだ。、大公家の次女に命令されてはだれも逆らえない。しかもまるで狙い撃ちしたかのごとく、アーヤのドレスだけに悪意が込められていた。リックは唸った。

「ルージュ、なぜこんなことをする!」

 リックの胸に暗澹たる不安がよぎった。ルージュの心に潜む歪んだ感情、それが後に大きな厄災を招くのだが、そのエピソードについては編を改めて詳述する。


 エリーゼとライゼルが親しげに話している姿が見えた。姉弟だからこそ、リックは二人の仲が進展していることを悟った。

 来賓と歓談するリックの許にバイヤーオベルン知事がやってきた。

「ザイドリック殿、このたびは本当にお世話になった。わしにはどう感謝の意を表したらよいのか、見当もつかない」

「いいえ、わたしはやるべきことを為しただけです」

「ところでザイドリック殿、少々内密な話をしたいのだが ───」

 バイヤーオベルン知事は神妙な面持ちでそう告げた。

「では、窓際に行きますか。あそこなら立ち聞きされる心配もない」

「うむ、そうだな」

 二人は大広間の窓際に移動した。まだ残暑が残る季節だったので、窓は全開になっている。少しだけ秋の風が吹き込んできた。

「ザイドリック殿、貴殿だからこそ話すが、我々夫婦は子宝に恵まれなかった」

「えっ?」

 リックは怪訝そうな表情を見せた。

「まあ、そういう顔になるわな ───」

 バイヤーオベルン知事は続けた。

「ユリエッタは我々の本当の娘ではない。今から一二年前、宮殿の外を夫婦で散歩していて、森の入り口手前で座り込み泣いている幼女を見つけたのだ。わしには五歳ぐらいに見えた。名前を聞くと「ユリエッタ」と答えたが、両親の名を尋ねてもなにも言わなかった。とりあえず周囲に親がいないかどうか探したのだが、いっこうに見つからなくてな。やむをえず、見つけた場所に戻して去ることにした。しかし五〇メートルぐらい進んだところで妻が泣き出したのだ。このままでは野生動物に襲われてしまうって。それでまた戻って、ユリエッタを引き取ったのだ。以後何度も配下の者を使って探させたが、ユリエッタの両親は見つからなかった。一年以上が経って、わしら夫婦はこう思うようにしたのだ。あの子は子供が生まれなかった我々の元に神様が贈ってくれた宝物なのだと」

 バイヤーオベルン知事の目には涙が光っていた。

「ユリエッタは不思議な娘だった。あるとき、わしがユリエッタを連れて城壁付近を歩いていると、突然八歳のユリエッタが“前に進んじゃダメェ!”と叫んだのだ。それで立ち止まったら、その直後、城壁の石が崩れて我々の前に落っこちた。あのときユリエッタが止めなければ、わしはもう生きてはいない。そんなことが度々あって、ユリエッタの力は人知が及ぶものではないと悟ったのだ」

 バイヤーオベルン知事はリックの顔を覗き込んだ。

「わしがなぜこんな話をしたか分かるかね?」

 リックには皆目見当がつかなかった。

「いえ、わかりません」

「・・・実はな、貴殿にユリエッタを嫁にもらってほしいのだ」

「!!!」

 リックは驚きのあまり、言葉を失ってしまった。

「ミルンヒック長官との交渉で見せた胆力、部下を統率する力、人間的魅力、あらゆる点で貴殿こそユリエッタの夫にふさわしい人物だ。ユリエッタと少し話したが、貴殿のことを憎からず思っているようすだった。貴殿はユリエッタのことをどう思う?」


 この一連のやり取りをバルコニーで立ち聞きしてしまった者がいた。アーヤだった。涼しい風を浴びようとバルコニーに出たところで、リックとバイヤーオベルン知事が近づいてきたため、出るに出られなくなってしまったのだ。彼女に立ち聞きする意図はなかったが、結果的に聞こえてしまったのは不幸であった。ユリエッタの過去を知り、驚いたが、それ以上の衝撃がバイヤーオベルン知事からリックへ伝えられた申し出だった。

「!!!」

 リックの驚きとアーヤの驚愕は同時に発せられた。

 しばし固まっていたアーヤだが、やがてすべてを理解した。

────そうだった。これは当然来るべき未来。わたしはなにを勘違いしていたのだろう。旧大公家の息女ユリエッタと現大公家の嫡男ザイドリック様、なんて素敵な組み合わせなのか。でも・・・今知りたくはなかった。

 アーヤはそっと涙を拭い、リックの答えを聞く前に連続したバルコニーの反対側から抜け出して上着を羽織り、大公宮殿を後にした。リックの答えを聞いてしまったら動けなくなる、そう思ったのだ。


 危機に即応できるよう、兵舎は大公宮殿のすぐそばに建てられている。短い時間でそこへ到着したアーヤは衛兵の敬礼を受けたのち、自分の部屋へ向かった。

 扉を開けると、小さな“家族”が「ウニャーン」と鳴きながら、のそのそお迎えに出てきた。

「ただいま、チャチャ ───」

 それはアーヤが飼っているネコだった。「チャチャ」と名づけられたそのネコは茶色い長毛で顔が平たい変わった外観を持っていた。

 ある雨の日、兵舎から外を眺めていて、アーヤは小さな生き物が物陰で震えているのを発見した。子猫だった。なぜこんなところにいるのだろうと思ったが、ネコの行動などだれにも予想できないのだ。

 ずぶ濡れで今にも死んでしまいそうな子猫を見て、アーヤはかつての自分を思い出した。

────あの子はわたしとおんなじだ。雨の中、川原で死にかけていたわたしをリック様はためらわず救ってくださった。わたしにはなにも恩返しできる力はなかったのに。・・・だからこそ今度はわたしがあの子を助けなければならない。

 アーヤは兵舎を飛び出し、虫の息になっていた子猫を助けた。部屋で懸命に看病を続けた結果、子猫は息を吹き返し、その後は順調に育っていった。

 アーヤは赤いドレスを脱ぎ捨てた。大きな胸がブルンと揺れた。平服に着替えてから、チャチャを抱き上げた。また「ニャーン」と鳴いている。

「チャチャ、お母さんはね、今日とっても悲しいことがあったの。でも、本当は祝福しなきゃいけないんだからヘンだよね」

 チャチャは真ん丸な目でアーヤを見つめ、ぬいぐるみのような手でポンポンと応えた。

「なぐさめてくれるの? チャチャはいいコだね。今日はいっしょに寝よう」

 そして明日の準備もほどほどにアーヤはベッドに入った。

────わたしは身の程を知らなかった。本当に愚かだった。女工出身のわたしが好きになってよいひとではなかったのに・・・・でも・・・リック様

 アーヤはリックとともに巡った戦いの日々を思い出した。

────ユリエッタとの結婚を羨む気持ちは毛頭ありません。でも・・でも、どうか好きでい続けることだけはお許しください。

 切ない想いを胸に秘め、アーヤはその日悲しみに暮れながら眠った。



「貴殿はユリエッタのことをどう思う?」

 バイヤーオベルン知事の問いにリックは少しだけ間を置いた後、答えた。

「お嬢様とのお話、たいへん光栄に存じます。しかしわたしには結婚よりも先にやるべきことがあります。以前お伝えしたかと存じますが、父ゴットフリートの死の真相を突き止めるという使命です」

 バイヤーオベルン知事は何度もうなずいた。

「そうだったな。立ちふさがる問題を解決しないかぎり前へ進めない、貴殿はそういう男だった。だが、仮に復讐の相手が見つかったとして、復讐の炎が大きく燃えさかれば、その炎は自らをも焼き尽くす、そんな危うさを秘めている。どうかそれを忘れないでもらいたい」

 リックは無言で聞き入った。



 一〇月十一日、リックは首都シュタインズベルク南方の郊外に足を運んでいた。そこは大規模な工場敷地で、いくつもの大きな工場棟が並んでいる。リックが向かった先の建物入口上部には「SR社 本社工場」と銘板が打たれていた。

 リックが廊下を歩いていると、すれ違う従業員たちは皆立ち止まり、直立不動の姿勢で敬礼した。奥の扉を開けると、そこは最終組立工場になっており、蒸気機関を動力源とした工作機械類が轟音を響かせつつ、大型兵器らしきものを組み立てている。

 白衣の男が小走りに駆け寄ってきた。

「社長、お疲れさまです」

 リックを「社長」と呼んだ男の名はレスペル・ブレート、本社工場長兼工学博士であった。まだ三二歳の若輩ながら、その技術理論は斬新かつ実用的、生産工程管理の技能も傑出しており、リックは彼の意見を取り入れて、大規模な工場を国内数箇所に建設したのだった。

「ブレート博士、試作の進捗状況はどうかな?」

「はい。社長、今年中に完成の予定です。その後、工場内で動作確認。春先には試射が可能だと考えています」

「そうか。ぜひペースを落とさず進めてもらいたい。この兵器が完成すれば、過去に何度も戦乱に巻き込まれた我が国にもようやく十分な自衛力が備わるというものだ」

 狼の時代が到来しようとしている。その懸念に対して、リックは具体的な対応策を準備していた。できることなら使わずに済めばと願っていたが。

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