第九章 タフ・ネゴシエーター
戦いの翌日六月二五日、ローライシュタイン大公国第六師団はオベルンスブルク近郊へ移動し、そこで停戦の具体的な準備に入った。進攻してくる帝国軍と、バイヤーオベルン大公国軍の第二戦線を構成していた部隊が六月二六日以降、首都で鉢合わせし、偶発的な衝突が起きる可能性はかなり高かった。そこでリックは両軍に対して、前もって状況を説明するための使者を出した。そのかいあって、軍事衝突は無事に避けられたのだった。
ローライシュタイン大公国第六師団、帝国軍、バイヤーオベルン大公国軍はちょうど三角形を作るかたちでオベルンスブルク郊外に野営地を設置した。講和会議は帝国全権代表とエリーゼ・ローライシュタイン大公が到着する一週間後、七月二日に設定された。
それともう一人、リックは彼にとって重要な人物を呼んだ。その人物はバイヤーオベルン大公国のさらに西方のフェスランキシュ王国で暮らしており、距離が近いことからリックは個人的に呼び寄せたのだった。
六月二九日昼過ぎ、ローライシュタイン大公国第六師団の野営地にフェスランキシュ王国の薔薇の紋章が入った一台の馬車と護衛の騎兵数名の一団が到着した。馬車の扉が開くやいなや、
「お兄様────────ッ!」
という甲高い声が響き、中からまるでエリーゼのミニチュア版のような少女が飛び出してきた。ローライシュタイン大公国エリーゼ大公、ザイドリック軍司令官の妹ルージュ一四歳であった。エリーゼ同様の金髪はツインテールに縦ロールという特徴的な組み合わせでセットされており、彼女の両腕には一目でエリーゼ、リックと分かる二頭身のぬいぐるみが携えられていた。
なぜルージュがこの場に現れたのか、その理由は七年前、大陸暦九三〇年のロ帝戦争勃発にまでさかのぼる。この戦争であわや国が滅亡するというところまで追い詰められたローライシュタイン大公国は血筋の維持を最優先課題に据えて、二年後、当時の君主ゴットフリートが熟慮の末に末っ子のルージュを親戚筋の住む西の大国フェスランキシュ王国へ疎開させたのだ。当時九歳のルージュは泣いて嫌がったが、だれもゴットフリートの決断に異を差しはさむことはできなかった。
しかしこの決定はルージュの心に深い傷を残した。彼女が片時もエリーゼ、リックによく似たぬいぐるみを手放さないのは家族からの愛に飢えているためであり、加えてリックたちの母親レノアはルージュ出産の際、死去したため、母親の愛を知らずに育ったこともルージュの人格形成に大きな影響を及ぼした。
今回、エリーゼとザイドリックがバイヤーオベルン大公国へやってきたため、二人はこれを好機と捉えてルージュを呼ぶことにしたのだった。
ルージュはリックにものすごい勢いで抱きついた。
「お兄・・様、ううっ・・・えぐっ、えぐっ・・・」
そのまましゃくり上げるように泣き出した。
「ルージュ、すまない。五年間も・・・・つらかったろう」
リックは優しく妹の頭を撫でた。
「三日後には姉上も到着する予定だ。ひさしぶりに三人で席を囲もう」
リックの言葉にルージュはただうなずくだけだった。
今後の戦略を固めるため、リックは第六師団野営地内を巡視していた。兵の休息状況を確認するのも指揮官として重要な任務だった。だが背後霊のごとくルージュがぴったり寄り添ってきて、思うに任せない状況になっていた。
一〇メートルほど先に、負傷の治療を受けている騎兵大隊の兵士たちを見舞っているアーヤの姿を発見した。リックが近づくとアーヤを始めとした兵士たちは皆一斉に右手を九〇度に掲げて敬礼した。
「いや、気にしなくていい。そのまま治療を続けてくれ」
「ところでアーヤ ───」
「はい。リック様」
ここでルージュが会話をさえぎった。
「おまえ、だれ?」
目を三白眼に歪ませて、ルージュは低い声で問うた。
この少女がリックの妹君であるとすでに知っていたアーヤは少々あせりながら答えた。
「わたしは第一連隊長のアーヤ・エアリーズです」
「ふうーん、連隊長ごときがお兄様に対して“リック様(ハートマーク)”とか言っちゃうわけ?」
「・・いえ、それは・・・」
困ったアーヤにリックが助け舟を出した。
「ルージュ、言葉が過ぎるぞ。わたしがそう呼ぶよう伝えたのだ。おまえには関係ない」
一瞬泣きそうな顔を見せたルージュだったが、すぐに応対を切り換えた。
「じゃあ、今後はあたしも主人になるから、おまえはあたしの僕(しもべ)だ」
平気な顔で暴言を吐いた。
仰天したリックは「すまない。ちょっと待っていてくれ」と言い残して、ルージュを抱え、物陰に移動した。そこでどういうやり取りがあったのか分からないが、しばらくしてリックは単独で戻ってきた。かなり疲れたようすだった。
「アーヤ、申し訳なかった。妹には言って聞かせたので、もうああいう暴言は吐かないと思う。たぶん・・・」
「いえ、リック様、わたしは全然気にしておりませんから」
そうは言ったものの、ルージュの表裏がある態度にアーヤはかなりショックを受けていた。リックとアーヤの話し合いはしばらく続いた。
七月一日(講和会議の予定日前日)、ローライシュタイン大公国第六師団野営地にエリーゼの乗る「88(ハチハチ)」と護衛部隊が到着した。この期日に着くようリックが手配したのだった。エリーゼ、ザイドリック、ルージュの兄弟姉妹が五年ぶりに勢ぞろいしたことになる。
ルージュが九歳でフェスランキシュ王国へ旅立つまでは九歳違いの姉エリーゼが母親代わりとなっていたので、ルージュはエリーゼにだけは頭が上がらない。それだけでなく、エリーゼの前では努めて良い子のようにふるまうルージュであった。
バイヤーオベルン大公との事前会談で、帝国の全権代表として帝国長官レムハイル・ミルンヒックが来ると知らされたエリーゼ、リックは複雑な表情を見せた。それはミルンヒックが元首フォイエル・ドラスの片腕として権力を振るっていることに嫌悪感を覚えるだけでなく、亡き父ゴットフリートの因縁の相手だったことも影響している。
ペンタルキア当日、ゴットフリートはミルンヒックとの会談に臨んでいた。それは急遽設定された会合で、ゴットフリートの宿泊先にミルンヒックが訪れて行われたと聞く。ゴットフリートの身辺警護としてライゼル・ハウスホーファーが入口扉のすぐそばに控えていたが、二人の会談内容までは聞こえなかったと後にライゼルは証言した。
そこでゴットフリートはフォイエル・ドラスを連邦元首に推挙する議決権行使書を記し、その直後に亡くなった(公式発表)。しかしそれを証言したのは当時の国家長官ミルンヒックのみ。離れた場所から眺めていたライゼルは自分の視点で見る限り、その会談に刺々しい雰囲気はなく、平和裏に行われたと後日、エリーゼ、リックに語った。
なぜ父ゴットフリートが数日のうちに心変わりしたのか、それがリックにはどうしても解せなかった。ミルンヒックを詰問すれば、あるいはなにか引き出せるかもしれないが、それは私怨であり、この講和会議で出すべき話題ではなかった。
七月二日、帝都ジースナッハの十字紋章が付いた巨大な「88(ハチハチ)」がエルマグニア帝国長官レムハイル・ミルンヒックを乗せて、バイヤーオベルン大公国首都オベルンスブルクへ到着した。可動式タラップを降りるミルンヒックはいつものように片眼鏡、そして表面上は柔和な表情をたたえた“食えぬ”男だった。
宮殿内の会議室に案内されたミルンヒックはそこで長テーブルの短辺側上座に腰かけた。その真後ろにはジースナッハの十字紋章国旗を中心に、左にローライシュタイン大公国の鷲紋章の国旗、右にバイヤーオベルン大公国の盾紋章の国旗が掲げられていた。
長テーブルの長辺側左にエリーゼ、ザイドリック、右にウォルフ・バイヤーオベルン大公が座った。
頃合を見計らって、ミルンヒックが開会を宣言した。
「大陸暦九三七年七月二日、エルマグニア帝国とバイヤーオベルン大公国との講和会議を執り行う。本会議議長はわたくしエルマグニア帝国長官レムハイル・ミルンヒックが務める。会議終了後、、エルマグニア帝国とバイヤーオベルン大公国は講和条約に署名を行うものとする。
なお、本日は当事者以外にローライシュタイン大公およびザイドリック・ローライシュタイン軍司令官の臨席を認めることとした。これは今回の戦役におけるめざましい戦功を評価して、偉大なるフォイエル・ドラス指導者が特別に認めたものである」
ミルンヒックは「特別に」を強調して伝えた。すでに主導権争いは始まっていた。
さっそくエリーゼが挙手し、発言を求めた。ミルンヒックは余裕の表情でそれを許した。
「帝国長官にお尋ねいたします。今回の講和会議、帝国長官は全権代表として赴かれたとお聞きしております。お間違えないでしょうか?」
この質問にミルンヒックはずいぶんと気分を害したようだった。
「ローライシュタイン大公殿はなにが言いたいのかな? まさかこのわたしが子供の使いとでも?」
「いいえ、そのようなことは申し上げておりません。ただ、決定権の所在を再確認しただけです」
「それがわたしの権威に対する侮辱だと気付かぬようでは貴女もまだまだ幼いようだ」
皮肉を込めて返したつもりだったが、すでにこのときミルンヒックは交渉事の陥穽にはまっていた。
「たいへん失礼しました。帝国長官が決定権をお持ちであると再認識いたしました」
エリーゼの口元が微かに微笑んでいた。
続いてバイヤーオベルン大公が挙手の上、発言を求めた。ミルンヒックはそれを許した。
「今回の戦役において、残念ながらバイヤーオベルン大公国は戦いに敗れる結果となりました。それに関してこれ以上言うべきことはありません。敗れた以上、こちらに選択肢はありません。領土を明け渡します」
ミルンヒックは控えめながらニヤリと笑った。領土の割譲交渉はどこにおいても難航を極めるもの。その交渉を会議冒頭であっさりあきらめるとは幸先がいい、そんな気持ちだったのだろう。たがら、次のバイヤーオベルン大公の言葉には耳を疑った。
「バイヤーオベルン大公国はエルマグニア帝国に対して、領土全土の租借を認めます」
「租借?」
ミルンヒックにとってまったく想定外の言葉だった。むろん「租借」の意味は分かっている。だが、領土全土を租借させるなど聞いたことがない。フォイエル・ドラスから領土の割譲交渉を担当するよう命じられた際、ミルンヒックは大きなチャンスだと感じて小躍りした。この交渉で己の手腕が認められれば、ドラスの後継者として指名されることもありうると考えたのだ。ドラスから具体的な指示はなかったが、「可能な限り広く領土を割譲させる」それが重要であると考えていた。
しかし「租借」とは・・・・
ひとは想定外の状況に直面したとき、思考力を失う。このときのミルンヒックがまさしくそれだった。
リックはアーヤとの六月二九日の話し合いを思い出していた。実のところ、租借という選択肢はアーヤが提示したものだった。
現在の彼我の立場、国力の違い等を伝えた上でアーヤに意見を求めたところ、しばし黙考していたアーヤはやがて口を開いた。
「領土の割譲ではなく、あらかじめ期限を定めた上での貸借はできませんか?」
「領土の貸借?」
「はい、割譲すればそれは永遠に戻ってきません。国力の違いを勘案すればなおさらでしょう。ですが、一定期間の貸借で話をつけられれば、状況は変わってくるはずです」
「それだ!」
リックは思わずアーヤの両肩をつかんだ。びっくりしてアーヤが見上げると、
「アーヤ、ありがとう」
それだけ言い残して、リックはバイヤーオベルン大公の宮殿へ向かっていた。
バイヤーオベルン大公は当初このアイディアに消極的だった。領土全土を租借させたなら、自分たちはどこへ行くというのか。
リックはエリーゼを口説き、バイヤーオベルン大公家を客人としてローライシュタイン大公国に迎えるつもりだった。行政手腕に長けたバイヤーオベルン大公の能力は必ず役立つはず、リックはそう考えた。さらにいえば、仮に今回、領土割譲で妥協したとしても、フォイエル・ドラスの野望がそこで終わるという確証はない。次に何らかの口実で攻め込まれたら、もはやローライシュタイン大公国が助け舟を出すことも不可能になってしまうのだ。
租借期間は三〇年をめどとすることもバイヤーオベルン大公に伝えた。三〇年後、フォイエル・ドラスは七八歳であり、ほぼ生きていない。むろんバイヤーオベルン大公も生きていないが、子孫に領土を残せるのであれば、妥協できるのではないかと説得した。
七月一日になってエリーゼが着き、この条件はより具体的になった。バイヤーオベルン大公との事前会談で、エリーゼは当人に直接、ローライシュタイン大公国の知事として遇することを約束した。バイヤーオベルン大公はこれを呑み、かくして基本戦略は固まった。
相手側の意図が読めぬまま、ミルンヒックは問いかけを発した。
「租借という以上、条約で期限を定めるはず」
「もちろんです」
バイヤーオベルン大公は落ち着いて答えた。
「それで、どれぐらいの期間を?」
「三〇年でいかがでしょうか」
「三〇年? 租借にしては短い。そんな話は論外だ!」
ようやく思考が追いついたのか、ミルンヒックはむきになって反論した。
「では論外として、その場合どうされるのでしょうか?」
リックが言葉を継いだ。
「もう一度戦争を再開しますか。しかし講和会議の結果報告を待つフォイエル・ドラス元首はさぞかし驚かれるでしょう。講和が一転して戦争再開では、帝国長官の沽券にも関わりますし」
「きさま!!、わたしを脅すつもりか」
「とんでもありません。わたしはローライシュタイン大公国の軍司令官。戦争再開により将兵の生命を危険にさらしたくない一心から、そう申し上げたまでです。それに・・・」
「それに?」
「冷静にお考えください、三〇年という期間を。人の命は永遠ではありません。帝国指導者の御世において覇権を確立できるのなら、それ以降のことは次世代に託してもよいのでは」
ミルンヒックは考え込んでいるようすだった。しばらくして
「・・・うむ。まあ、いいだろう ───」
リックの作戦勝ちだった。
「あと一つ、帝国長官にお願いがあります」
「なんだ。まだあるのか」
会議の主導権を二〇歳の若者に握られて、ミルンヒックは心底不機嫌そうだった。
「条約発効前までの期間、バイヤーオベルン大公国に住む者の移動の自由をお認めください」
「なに? そんなことは認められんぞ。租借したからには、領民もみな租借の対象だ!」
「ならば、国境線全てに兵を配置しますか。それとも壁を建設しますか。いずれにせよ莫大なコストがかかりますが」
「うぬぬぬ・・・」
ミルンヒックの額の血管がピクピクと動いているさまが手に取るように分かった。
「もうよい。好きにするがいい!」
それだけ言うとミルンヒックは席を立ち、部屋を出て行ってしまった。しかし傀儡ともいうべき「全権代表」に破談を選択する胆力などないことは明白だった。講和会議にフォイエル・ドラスが自ら出席した場合、このやり方が通用しないことをリックは重々理解していた。二重化した権力の盲点を衝き、ザイドリック・ローライシュタインは帝国との第一回戦に勝利した。
その後、渋面で会議室に戻ったミルンヒックは不承不承、講和条約に署名した。西方機動戦は名実ともに終わったのだ。
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