第四章 帝国樹立
大陸暦九三三年六月
「父上、体がお悪いのに旅に出るのですか」
一六歳のザイドリックが要人専用の大型馬車(注)に乗車しようとしている父ゴットフリートに尋ねた。
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注:八頭馬牽引、寝室付八輪馬車、正式名「キャリッジ」、通称「88(ハチハチ)」
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ゴットフリートは三年前のロ帝戦争(大陸暦九三〇年に勃発したローライシュタイン大公国とテッサーラビウス帝国間の戦争)で深傷を負い、それが元で体調の優れない日々を過ごしていた。
「リックよ、わたしは行かねばならない。この会議には連邦の未来がかかっているのだ」
ゴットフリートは優しく長男の肩に手をかけた。
「連邦の未来?」
「おまえもいずれ悟ることになるだろう。フォイエル・ドラスはあまりにも野心が強すぎる。他の代表者にもそれは伝わっているはずだが・・・」
ゴットフリート・ローライシュタイン大公の瞳が暗く沈んだ。
「むっ、そろそろ出発の時間だ。リック、帰ってきてから話そう」
そう言うと、ゴットフリートは「88(ハチハチ)」に乗り込み、護衛を従えて気の進まぬ旅路へと発っていった。
それから一週間後、突如もたらされた凶報にリックは耳を疑った。なんと父が旅先で急逝したらしい。確かに古傷が痛むと言っていたが、医者の見立てではあと数年はだいじょうぶとのことであった。それがなぜ?
ローライシュタイン大公は元首選挙会議ペンタルキアという重要な会合に出席するはずだった。六八歳で逝去した連邦元首ディアール・レキシントンの後継者を決める重要な会議であることから、病身であっても参加する必要があったのだ。しかしながら、会議が始まる少し前に亡くなったという話だった。
そして元首選挙会議ペンタルキアでは都市国家ジースナッハの統治者であるフォイエル・ドラスが元首に選出された。しかもそれは賛成四、棄権一という大差での結論であり、父は書面による議決権行使書でドラスの選出に賛成したという。
「何故だ?」
リックは再び自問した。別れる間際、父は決してフォイエル・ドラスに良い印象を抱いていなかった。それなのにたった数日で翻意するだろうか?
数日後、護衛に守られつつ無言で帰国した父の亡骸に接し、リックは床に崩れ落ちるようにして泣き叫んだ。父の死を悲しむだけでは足りなかった。父の握り締められた両拳に血の流れ出した跡を発見したからである。四本の指が掌に食い込んでいた。
「父上、どんなに無念だったのか、今分かりました。この死は自然の理ではない! 背後で糸を引いたやつがいる。必ず、必ず・・・その企みを暴いてやる!」
その瞬間、ザイドリック・ローライシュタインは魂を燃やし決断することの意味を知った。父の教えがそこにあった。
大陸暦九三七年五月一日、エルマグニア連邦元首フォイエル・ドラスは都市国家ジースナッハの指導者官邸において快晴の空を眺めていた。中肉中背、短髪の黒髪、決して目立つ風貌ではなかったが、唯一その黄金色に輝く瞳だけは凄まじい光彩を放っていた。眼光の鋭さ、加えて天才的な閃きが彼を今日の地位に就かせたといえる。本年をもって四八歳となるドラスは四年前に元首に就任して以来、着々とその地歩を固め、本来は同格であるはずのベアヴォラーグ同盟すらも実質的な支配下に置き、その指導力は連邦全土に鳴り渡りつつあった。
荘重かつ巨大な扉をノックする音が響いたのち、国家長官レムハイル・ミルンヒックが定例報告のため元首の許を訪れた。片眼鏡をかけたミルンヒックは三七歳、フォイエル・ドラスの右腕としてその意を汲み、的確に事務処理を進める手腕は比類なきものであった。
この日、フォイエル・ドラスは非常に重要な決定を下した。右腕の国家長官レムハイル・ミルンヒックを通じ、それは元首布告として対外的に発表された。
元首布告
本日付をもってエルマグニア連邦はエルマグニア帝国、都市国家ジースナッハは帝都ジースナッハとそれぞれ改称する。
大陸暦九三七年五月一日
エルマグニア帝国元首フォイエル・ドラス 署名
それはジースナッハ以外のランド四ヶ国において驚きをもって迎えられた。一五〇年を越えるエルマグニア連邦の歴史において、最大級の改変事項だったからだ。
そもそも名誉職の色彩が濃い連邦元首にそのような権限があるのか、連邦と帝国に何の違いがあるのか等、確認しなければならないことは多岐にわたっており、それも四ヶ国代表者を混乱させたといっていい。だが、ペンタルキアを開催し、元首を罷免しようにも、それには元首選出国以外、全四カ国の賛成が必要であり、ジースナッハの追従者と化しているベアヴォラーグ同盟にその気がないのは明白であった。帝国の船出は波乱を含み始まった。
ローライシュタイン大公国では目下、一週間前に告示された元首布告が論議の的となっていた。この布告にもっとも驚いたのは現君主であるエリーゼ・ローライシュタイン大公だった。さっそく弟のリックを呼んで、フォイエル・ドラス元首の真意を読み解こうと考えた。
「リック、あなたはこの布告をどう捉えますか?」
艶やかな縦ロールの金髪をたなびかせて、御歳二三歳のエリーゼは弟に尋ねた。
「フォイエル・ドラス元首は元々ランド五ヶ国の一つ、ジースナッハの統治者に過ぎませんでした。それがペンタルキアで元首に選出されて以来、己の権力基盤を強化する方向にのみ動いているような気がします」
「確かにそういう意図を感じるわ。元首に就任直後の演説では自らを“指導者”と呼んでほしいと訴えていたらしいし・・・」
「前元首ディアール・レキシントンの時代にはなかったことがこれからも次々と起こる。そんなふうに感じます。しかし今は情報が少なすぎる。こちらから積極的に動ける局面ではありません。まずはドラスの意図を読み解く、それが優先事項です」
意見交換を続けていると、執事長シベリウスから伝言が伝えられた。その内容とは、連邦、否、今では帝国となったエルマグニアの西方に位置するバイヤーオベルン大公国の君主ウォルフ・バイヤーオベルン大公が二週間後に会談を開きたいと申し入れてきたことだった。
「おそらく今回の帝国改称布告に関連する議題だと思います。姉上、どうされますか?」
「受けましょう。バイヤーオベルン大公が自ら足を運ばれるとおっしゃっているのだから、我々に断る道理はありません」
「御意」
エリーゼとリックの協議はそれからもうしばらく続いた。
二週間後、ウォルフ・バイヤーオベルン大公が護衛を務める近衛騎士団を伴ってやってきた(挿絵:バイヤーオベルン大公の旅路 参照)。
https://yahoo.jp/box/zBRJZL
近衛騎士団は全員が鈍い銀色の甲冑に身を包み、バイヤーオベルン大公国の紋章である「盾」をかたどった刻印入りの肩当をつけた、いかつい男たちの集団だった。
その騎士団の先頭に立って馬上をゆく騎士にローライシュタイン大公国一同は目を見張った。一人だけまばゆい銀色に輝く甲冑を着た騎士は“真っ白な”少女だった。
兵士の一人がつぶやいた。
「奇跡の白騎士だ」
奇跡の白騎士と呼ばれたその少女ユリエッタは数々の神話に彩られた武勇伝を残していた。戦場での戦績は不敗、奇跡の白騎士に率いられた部隊は必ず勝利すると語られており、ユリエッタ自身も一対一の戦闘で一度も負けたことがないと伝えられていた。
肌は抜けるように白く、ホワイトゴールドの長髪は戦場で邪魔にならないよう後ろで結ってある。瞳はわずかに赤みを帯びた褐色。伝説が語る武勇と華奢な体つきはまるで相容れぬもののように見えた。
一行が厳かに通り過ぎるところを群衆にまぎれてアーヤが見つめていた。なぜ自分にはほとんど関係がない客人の来訪を見に来たのか、アーヤ自身分からなかった。
唐突に馬上のユリエッタがこちらを向いた。まるで群衆の中からアーヤだけを探し当てたかのようにしばし凝視したが、とくになにもせず、そのまま通り過ぎていった。
アーヤも不思議な感覚を受け止めていた。群集の歓声が沸き立つ渦中、まるで静寂の中にいるかのごとく、二人はシンパシーを感じ合っていた。
宮殿の前で馬を下りたユリエッタ始め騎士団は整列して、馬車からウォルフ・バイヤーオベルン大公が下車した瞬間、右手を九〇度に掲げて敬礼した。
その前を初老のバイヤーオベルン大公が頷きながら通り過ぎる。齢五八を迎え、頭髪、顎ヒゲともに白くなっているバイヤーオベルン大公だったが、足取りはしっかりしていた。その後ろをユリエッタが続いて随行する。彼女はバイヤーオベルン大公の身辺警護も兼ねているのだ。
宮殿に入ったところでバイヤーオベルン大公はエリーゼから手厚い歓迎を受けた。それまで不安そうな面持ちだったバイヤーオベルン大公の顔にやっと笑顔が浮かんだ。
「ローライシュタイン大公閣下、ご多忙のところ、当方の会談要請に応えてくださり、誠に感謝いたします」
前君主ゴットフリートの時代から親交があり、大公としては先輩格でもあるというのに、ウォルフ・バイヤーオベルン大公はたいへん物腰の柔らかい人物だった。子供の頃、遊んでもらった記憶があるので、エリーゼもリックもバイヤーオベルン大公に好意を抱いていた。
「さあ、こちらへ」
エリーゼが応接室にウォルフを招こうとしたところで、バイヤーオベルン大公はユリエッタのほうを向き、「わしはこれから政治的に極めて難しい話し合いをする。おまえにはそれを聞かせたくない。知らなければ、巻き込まれることもないからな」と告げた。
ユリエッタは敬礼し、「かしこまりました」とだけ答えるとそのまま踵を返し、城外へと歩き出した。
「これでいい」
バイヤーオベルン大公のつぶやきはだれにも聞こえなかった。
応接室の円卓には客人バイヤーオベルン大公、国の代表者としてエリーゼ、軍の司令官としてリックが着席し、それに代々ローライシュタイン大公国に仕える騎士の家系である現軍団長ライゼル・ハウスホーファーもエリーゼの希望で加えられた。
「すでにお聞き及びのことと思うが、エルマグニアの元首フォイエル・ドラスがにわかには信じがたい布告を出した」
バイヤーオベルン大公の声は沈んでいた。
「わしはペンタルキアにおいて唯一ドラスの元首選出に棄権票を投じた者だが、その懸念は当たっていたと言うほかない。一五〇年を越す連邦の歴史において、それを帝国などと改称する試みはこれまでに一度もなかったと公式文書は伝えている。これに関して、ローライシュタイン大公はどのようにお考えか?」
エリーゼは少しだけ躊躇したようなそぶりを見せてから口を開いた。
「バイヤーオベルン大公のおっしゃる意味はよく分かります。わたしもあの布告には心底驚きました。ただ・・・」
「ただ?」
バイヤーオベルン大公が怪訝そうな顔を見せた。
「フォイエル・ドラス元首がどのような意図でこの布告を出したのか、もう少し見極めたいと考えております。連邦が帝国と名乗ったことにより、どのような弊害が生じるのか、今はなにも分かっておりませんので」
「ふうっ」
バイヤーオベルン大公はため息をついた。
「エリーゼ殿、わしはそこまで悠長に構えてはいられないと感じている。帝国と名乗った以上、他の四ヶ国の自治権に手を突っ込んでくることは明白ではないか。先に動かれれば、国力の差で敗北する。なにせ都市国家ジースナッハとベアヴォラーグ同盟は一心同体、いや、ベアヴォラーグ同盟は実質的にドラスの支配下にあると言っても過言ではない」
ここで軍団長ライゼル・ハウスホーファーが手を挙げた。エリーゼが発言を許可する。
「一軍団長の立場で発言することをお許しください。連邦、いや、今は帝国でしたか。では改めて、帝国はランド五ヶ国によって構成されています。その結束があるからこそ、隣国も容易には攻め込めません。一五〇年前にお互いの国境を巡る争いに終止符を打ち、連邦を樹立することで国力の回復・増強を図ることができました。それをかつての戦乱の時代に戻してまで、ドラス指導者が強権を発動するでしょうか。そんなことをすれば、民心が離反し、かつ東方の一大脅威であるテッサーラビウス帝国を利するだけです」
ライゼルの意見は一理あった。だが、バイヤーオベルン大公はその言葉に耳を貸さなかった。
「確かに今まではそうだった。だが、これからもそうだろうか。仮にだ、指揮命令系統の統一を行うという名目で、ドラスが各国の保有する戦力を一元化すると命令を出した場合、従えるか?」
「まだそこまでは踏み込んでこないのでは?」
ライゼルが応じた。
「分かっておらぬな。そうなったときにはもう遅いのだ。諸君はだれも直接ドラスに会ったことがないのだろう。ペンタルキアで実際に長時間議論したわしには分かる。フォイエル・ドラスはこのアレイアウス大陸の覇者になろうとしている」
バイヤーオベルン大公は苦渋の表情で続けた。
「これはここだけの話にしておいてもらいたい。わしは今回の布告を秩序の破壊と捉えて、連邦を離脱しようと考えている。帝国などと自称する戯けに付き合うつもりはない。それにだ、ペンタルキアで選出されたのはあくまでも連邦元首であり、帝国元首ではない。バイヤーオベルン大公国には行動の自由が保障されている」
それはあまりにも重い決断だった。まさかそこまで考えているとは想像もしていなかったため、エリーゼもリックも、そしてライゼルも仰天した。あわてて思いとどまらせようとしたが、バイヤーオベルン大公に翻意するつもりはなさそうだった。
「本日、わしがこの地に伺ったのはそれを伝えるためだけではない。ローライシュタイン大公国にも働きかけて、同時に離脱してはどうかと提案するつもりだったのだ」
重苦しい空気が流れた。
しばらく経ってからおもむろにエリーゼが口を開いた。
「バイヤーオベルン大公閣下、わたしにはこの国の民と領土を守る義務があります。ゆえにこの場で同意することはできかねます。ですが、大公閣下のご意思は尊重いたします。どうかもう少し時間をいただけますか」
「・・・そうだな、即断できるような議題ではないとわしも理解している」
バイヤーオベルン大公は悲しげに応えた。
ここでリックが希望をつなぐように言葉を継いだ。
「わたしも姉も父ゴットフリートの死には納得していません。フォイエル・ドラス元首がペンタルキアで選出されたとき、父は書面にて賛成票を投じたとされています。しかし本当にそうでしょうか。わたしは真実を知るまで決して諦めません」
エリーゼが静かにうなずいた。
城内を歩いていたユリエッタはそこで城外からかすかに剣の交わる音を聞いた。その音を求めて、彼女は城の外へ歩き出た。
ほどなく、ユリエッタは音の正体を知った。そこでは訓練用の模擬刀剣を使ってアーヤとドーラが戦闘訓練を行っていたのだ。その場所は大公国軍兵舎から程近く、それでいてひと気がない、剣術訓練には絶好のフィールドであった。
ユリエッタが近づいたところで二人は戦闘訓練をやめた。不用意に客人を傷つけてしまう無作法は厳に慎まねばならない、そう思ったのだ。
「あなたは ────」
アーヤがユリエッタに気付いて声を上げた。対してユリエッタはとくに反応なし。
ドーラは初対面だったが、すぐに相手が「奇跡の白騎士」であると悟った。
「おもしろい剣を使っているのね」
ユリエッタが口を開いた。
「その剣を見せてもらえるかしら」
近くにいたドーラが模擬刀剣を渡すと、ユリエッタは興味深げにしげしげとそれを眺めた。
「ふーん、軽金属でできているみたいね。鋼とは輝きがあきらかに違うし、刃もついていない。それに先端には玉が載っていて刺突攻撃による事故を防ぐようになっている。工夫されているなぁ。うちにもこういう訓練用の剣がほしいから、お父様に言って造ってもらおう」
模擬刀剣をぶんぶん振り回してその感触を確かめた後、ユリエッタはニコッと笑って、アーヤに告げた。
「わたしと試合をしてみない?」
まったく予想外の申し出だった。まさか隣国の騎士からそのような申し込みを受けるとは想定しておらず、アーヤはわずかに逡巡したが、すぐに同意した。戦場で不敗といわれる伝説の騎士を相手に試合をする、これほどの経験がほかで積めるだろうか。
ドーラが固唾をのんで見守る中、「赤」と「白」の一騎打ちが始まった。ドーラはアーヤの戦い方の特徴をよく知っていた。アーヤは相手の視線、構え、手足の微細な動き、間合いの詰め方を観察して、その相手の動きを読み、有効な一手を繰り出す。その予測精度は極めて高く、百戦錬磨のドーラですら、八割以上が読まれるほどであった。とはいえドーラは大公国中、最上位クラスの戦闘力を有するので、動きが読まれても互角の戦いを演じるだけの力量がある。事実、アーヤとドーラの対戦成績は五分五分であった。
そのアーヤが「奇跡の白騎士」と戦う、これほど羨望される試合はめったにない。それを間近に見られる自分は果報者だ、ドーラはそう感じていた。
ユリエッタが剣を構えた。とたんにそれまでの緩い空気が一変した。まさしく戦場に君臨する戦(いくさ)の神、その構えには一分の隙もなかった。褐色の瞳がみるみる生気を帯び赤く燃え始めた。
────相手の動きが読めない。一撃目がどこから来るのか、なにもつかめない。
これはアーヤにとって初めての経験だった。ひとにはみな癖がある。それは初対面の相手であっても、肉体の挙動、視線の動きなどである程度は特徴をつかむことができる。
だが、目の前の相手はどうだ。なにひとつ予測ができず、攻守がどのタイミングで切り替わるのかも分からない。少しずつ間合いを詰めるユリエッタに対して、アーヤは名状しがたい戦慄を抱いていた。
────やられる! このままでは・・・
そのときだった。
「ユリエッタ、こんなところにいたのか。会談は終わった。帰るとしよう」
バイヤーオベルン大公の声だった。そして護衛を連れた大公が三人の前に現れた。
突然、張り詰めた空気が和らいだ。
「命拾いしたわね」
そう告げると、ユリエッタは模擬刀剣をドーラに返して、大公の許へ駆けていった。残された二人は客人に向かって敬礼し、ただ去り行く一行を見送るだけであった。
「困ったことになった」
会議室でリックがつぶやいた。バイヤーオベルン大公が帰ったあと、残された三人で協議を重ねたが、結論は出なかった。
ライゼルは帝国への帰属を主張し、エリーゼは今でもバイヤーオベルン大公との提携関係を維持すべきか悩んでいた。リックは帝国の出方を警戒していた。
────バイヤーオベルン大公は「ここだけの話」と語っていたが、連邦/帝国からの離脱となれば、さまざまな準備が必要なはず。それに従事する人々の口に戸は立てられない。噂は燎原の火のごとく駆け巡る。隠しおおせるものではない・・・。
リックの悪い予想はわずか半月ほどで現実のものとなった。
六月八日、新しい元首布告の親書が帝国から届いた。
元首布告
帝国内に潜む分離主義者に対して、帝国は総力を以ってこれに対処する。ランド各国は二週間以内に一個師団相当の戦力を抽出し、総司令部主導の元、帝国軍を編成。分離主義者に対する防波堤とする。
なお、戦力抽出に応じないランドは分離主義者に扇動されているとみなし、平定の対象となる。
大陸暦九三七年六月六日
エルマグニア帝国元首フォイエル・ドラス 署名
まさしくバイヤーオベルン大公が予見していた通りの展開だった。ローライシュタイン大公国君主エリーゼは緊急会議を招集し、リック、ライゼル、それに戦闘教官(旧師団長)クライストが集まった。
「この元首布告は上下関係を伴った実質的な命令です」
リックが口火を切った。
「しかし応じないという選択肢はありえぬでしょう」
慎重な口ぶりながら、クライストは現実的だった。
「躊躇する必要があるのでしょうか。これにより指揮命令系統が一元化すれば、帝国の戦力は確実に増強されます。隣国、とりわけ東のテッサーラビウス帝国には何度も煮え湯を飲まされ、ロ帝戦争、国境紛争等で膨大な犠牲を出した我々からすれば、これは決して否定的に捉えるべきものではありません」
かつてテッサーラビウス帝国の侵攻から首都シュタインズベルク陥落の危機を救った英雄の一人であるライゼルの言葉は重かった。
軍人三名の議論をエリーゼは黙って聞いていた。帝国の要請に応えざるをえないという方向が固まったところで、エリーゼはリックに問うた。
「リック、あなたはどういうやり方が一番良いと思いますか」
しばし黙考していたリックだったが、やがておもむろに答えた。
「おそらくバイヤーオベルン大公国はこの元首布告に応じないでしょう。いや、そもそもここに書かれている“分離主義者”とはバイヤーオベルン大公を念頭に置いたものではないでしょうか。当然の帰結として、内戦が起こるに違いありません」
エリーゼがその眉目秀麗な顔立ちを険しくさせた。
「我々が帝国軍の先陣を切ります」
リックの言葉にエリーゼは心底驚いたようすだった。エリーゼとすれば、フォイエル・ドラスに懇願して、ローライシュタイン大公国軍を帝国の後衛部隊に回してもらうぐらいしか選択肢がないと諦めていた矢先だった。
「我々の師団が早期に相手方を撃ち破り、講和に持ち込めば、いかに元首といえども過度な口出しはできないはずです」
「それは想定していなかった・・・とても良い提案だわ」
エリーゼの表情が一気に和らいだ。
「でも、そんなことが可能なの? 仮に相手がバイヤーオベルン大公国だとして、かれらは百八十年前、侵攻する敵を食い止めるため自国の東部国境付近に強力なギアントム(巨壁の意)防壁を築きました。あの要塞防壁は今でも機能するはず」
「姉上、難攻不落の要塞など存在しません。必ずやり遂げます」
リックの目には強い意志の力が宿っていた。
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