第二章 回生
ふと、体が軽くなった。
────これが神に召されたということだろうか。
目は見えず、音も聞こえてこない。ただ、不思議な力に抱かれている感覚はあった。
どれぐらいの時間が過ぎたのだろう。なにか乗り物に乗せられていた感覚があったが、それすら幻だったようにも思える。
水の滴る音がした。いや、水ではなくお湯だ。だれかがアーヤを背後より優しく抱きかかえながら、湯船に浸かっている。体格が違うので、相手は男と分かったが、なぜか抵抗感はなかった。それよりも、癒されつつ温かいお湯に浸かる感覚はとても心地よいものだった。アーヤは全裸だったが、恥ずかしいとは微塵も感じなかった。
目覚めたとき、アーヤはふかふかのベッドに寝かされていることに気付いた。なにか起きたのかさっぱりわからない。
「あっ、お目覚めになりましたか。よかった」
枕元から声がかかった。そこにはメイド服姿の少女が微笑みながら立っていた。アーヤは知らなかったが、彼女はアーヤが斃れたとき、橋の上からそれを目撃した少女だった。
「わたしはフラン。このお屋敷でメイドを務めております。閣下からアーヤさんの身の回りのお世話をするよう命じられました」
「フラン? 閣下?」
まだ意識が朦朧としていて、なにが起きているのか見当がつかない。かろうじて思い出せるのは橋のたもとに佇み、途方に暮れていたときの記憶だけだ。それがなぜこんな大きな寝室で目覚めたのだろうか。
「結核は重い病気です。一ヶ月は静養してください。閣下から指示されたお薬を服用すれば、必ず良くなります」
フランの親身な言葉に目頭が熱くなった。それにしても、なぜこんなに親切にしてくれるのだろう。自分にはそれに報いる資力など何一つ無いというのに。
「あの・・・フランさん、わたしはどうしてここに? それから閣下とは?」
「アーヤさん、質問するのは体を治してからです。全快したら、閣下のところへご案内いたしますので」
それ以上尋ねるべきではないと判断して、アーヤはうなずいた。すべては回復してからだ。
ブラウンの髪、端正な顔立ちの青年が肘掛け椅子に腰掛けながら回想にふけっていた。そこは壁がはるか彼方にある巨大な執務室、だが、彼にとってはその部屋さえも単なる一地方の別邸にすぎず、そこに身を置くのもある目的のためだけだった。
青年は父ゴットフリートの言葉を思い出していた。
大陸暦九三〇年、ローライシュタイン大公国は存亡の危機に立たされていた。東の大国テッサーラビウス帝国が突如攻め込んできたのだ。領土は火に包まれ、領民は逃げ惑った。圧倒的な兵力で侵攻軍は首都シュタインズベルクに迫りつつあった。ここで君主ゴットフリート・ローライシュタイン大公は最後の賭けに出た。自ら騎士団を率い、敵の総司令部に急襲をかけるのだ。
一三歳の少年が不安に押しつぶされそうな顔で出陣間際の大公に話しかけた。
「父上、打って出るのですか。もうシュタインズベルクは火の海です。姉上、ルージュと一緒に逃げましょう。西に逃げれば、命だけは助かるはず ────」
ゴットフリートは戦の準備を進めながら静かにその言葉を聴いていたが、やがて諭すように言った。
「ザイドリックよ、逃げるということは全てを棄てることと同義だ。これまでに築き上げてきたものをことごとく棄てる勇気があって、そう言うのなら良い。だが、一時しのぎで逃げることは己の全否定だ」
「リック、自らの魂を燃やし、そして問え! その決断に誇りはあるか」
衝撃的な言葉だった。リックはただただ呆然と立ち尽くすだけだった。
ゴットフリートはにっこり微笑んでリックの頭を撫でた。
「まだ分からなくてもよい。だが、おまえたちがこの国を治める時代が到来すれば、必ず決断のときがくる。今はこのわたしの生き様を胸に刻め」
甲冑に身を包み、ゴットフリートは居城イーグルライズを後にした。マクシミリアンとライゼルの父子が率いる大公国一の精鋭騎士団がそれに続いた。
ゴットフリートが鬨の声を上げた。
「大公国の存亡この一戦にあり。我に続け!」
君主自らの出陣にいやがうえにも士気は高まった。騎士各々が雄たけびをあげ、ゴットフリートに続いた。そのさまをリックは慄えながら城の窓から覗いていた。恐怖のためではない、父が心底誇らしかったのだ。
勝利に沸くテッサーラビウス帝国侵攻軍の司令部は防御が手薄だった。しかも市街戦に突入して瓦礫と噴煙により視界は極端に悪化している。そこへ虚を衝き、大公国随一の精強な騎士団が急襲をかけたのだから、これは絶大な効果があった。
侵攻軍司令部は大混乱に陥った。大公ゴットフリートが、顎ヒゲを蓄えた騎士団長マクシミリアンが、そして初陣の一八歳ライゼルが凄まじい勢いで敵兵を斬り倒し、司令部へなだれ込んだ。もはやだれが司令官か、参謀長かなど、意味を持たなかった。そこにいる全員を討ち倒して、ゴットフリートはローライシュタイン大公国旗を掲げた。
指揮命令系統を破壊された侵攻軍は総崩れとなった。典型的な上意下達の組織であるテッサーラビウス帝国軍はこういう局面に陥ると弱い。まもなく潰走が始まり、ゴットフリートを中心とした大公国騎士団は勝利の凱歌を上げた。
だが、戦いは終わっていなかった。敗走する侵攻軍の兵士たちがバタバタと倒れ始めた。遠方におびただしい数の弓兵部隊が展開しているさまが見えた。テッサーラビウス帝国侵攻軍の第二陣が到着したのだ。司令官は帝国最高指導者ノジェスタ・フィルス議長から厳命を受けていた。
「敵前逃亡する兵士は全員その場で抹殺せよ。帝国に敗北主義者はいない。ただ前進制圧あるのみ」
司令官でさえその例外ではない。命の危機におびえながら、司令官はやみくもに命令を発した。
「前方に展開するローライシュタイン大公国騎士団を殲滅せよ」
しかしその間には潰走するテッサーラビウス帝国軍兵士が何千人もいる。
恐怖が人間をおかしくさせる。命令を受けた弓兵たちもみな命の危機におびえていた。ここで射らなければ今度は自分が敗北主義者として処刑されるのだ。結果、逃げ出した帝国軍兵士は全員射殺された。
大公国騎士団にも矢が雨あられと降り注ぐ。
「大公閣下ッ!」
ゴットフリートをかばい、騎士団長マクシミリアン・ハウスホーファーは全身に矢を受けた。
「マクシミリアン!」
「父上────ッ!」
ゴットフリートとライゼルが駆け寄り助け起こしたが、騎士団長はすでに事切れていた。
「父上・・・わたしを残して・・・なぜこんなことに──────」
これが初陣、一八歳のライゼルが滂沱とした涙を流した。
続く矢がゴットフリートの腹部を貫いた。最期のときが刻一刻と迫っていた。
その刹那、西方から角笛の音が高らかに鳴り響いた。続いて、騎兵を主力とする大兵力が姿を現した。友邦エルマグニア連邦軍が駆けつけたのだ。諸国の軍勢を統合する必要があったため、動員が遅れたが、連邦元首ディアール・レキシントンは盟約を守った。
エルマグニア連邦軍と全面衝突することは得策ではない。伝令から状況を聞き、そう判断したテッサーラビウス帝国のフィルス議長は講和を選択。ここにローライシュタイン大公国とテッサーラビウス帝国との停戦合意が成立したのだった(注:この戦いは後に「ロ帝戦争」と呼ばれるようになった)。
───また当時の光景を思い返したか。父のあの言葉がなければ、今のわたしもまたない。
ふとリックは懐中時計を取り出し、時間を確認した。
───今日の午後、あの娘が全快して面会に来る。・・・哀れに思って助けたのではない。彼女はわたしの剣(つるぎ)なのだから。
一ヶ月のサナトリウム(療養所)生活を経て、異例の速さでアーヤの体は全快した。「死の病」さえも財力があれば、乗り越えられるということだろうか。
一五年の間、一度も見たことがなかった高級なドレスを身にまとい、今アーヤは「閣下」とフランが呼ぶ当主のもとへ、屋敷内を歩いていた。その間、何人ものメイドや執事に出会ったが、皆、かつて女工だったアーヤに対しても一定の礼儀を怠らなかった。
「こちらです」
フランが案内した扉の両脇には屈強な衛視が立っていた。その厳かすぎる雰囲気に圧倒されて、アーヤは委縮したが、かまわずフランはアーヤを室内へと引っ張っていった。
「閣下、お連れいたしました」
広大な赤絨毯の部屋、その奥に当事者が座っていた。その脇にはまさに偉丈夫とも呼ぶべき騎士が立っている。当事者はこちらに背中を向けているので、椅子の背が邪魔をして、風体はうかがい知れない。
相手が立ち上がった。こちらへ近づくよう命ぜられた。
ここからはフランの付き添いはない。おずおずしながらも、アーヤは相手の近くへ歩み寄っていった。若い男だった。歳は二〇歳前、そしてアーヤは直感的にこの人物こそがお湯の中で自分を癒してくれた相手だったと認識した。
ザイドリック・ローライシュタインは自ら名乗り、そして静かに告げた。
「アーヤ・エアリーズ、わたしはお前の命がほしい」
その名を聞き、アーヤは恐懼してひれ伏した。
基本情報:
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エルマグニア連邦、それは五ヶ国によって構成される連邦国家であり、ちょうど版図の中心付近に都市国家ジースナッハ、その周りを固めるように肥沃な土地を有する農業国ベアヴォラーグ同盟、そして西にバイヤーオベルン大公国、北東にラウスベイ大公国、南東にローライシュタイン大公国が領土を保持している(挿絵:エルマグニア連邦地図https://yahoo.jp/box/2rCiA5参照)。
ランドと呼称される五ヶ国はそれぞれ自治権を持っており、中央集権的な組織は存在しない。連邦元首は五名のランド代表者の元首選挙会議ペンタルキア(「五名の支配」という意味)において、過半数三名以上の推挙により選出されるよう定められている。任期は終身だが、外交と国防の基本方針以外に決定権はないとされる。また、罷免には連邦元首を出した国以外、全四カ国の賛成が必要である。
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大陸暦九三五年、ローライシュタイン大公国の現君主はエリーゼ・ローライシュタイン大公(二一歳)、二年前の大陸暦九三三年に急逝した前君主の長女であり、その下に長男ザイドリック(通称リック:一八歳)、次女ルージュ(一二歳)という二人の弟妹がいた。
ローライシュタイン大公国は世襲が基本とされており、大公位の継承順は長女エリーゼ>長男ザイドリック>次女ルージュと続く。ザイドリックは大公国軍司令官(ジェネラル)に任命されており、それもあってアーヤは驚愕したのであった。
「閣下、なぜわたしのような下々の者の命などを所望されるのでしょうか」
ザイドリックはしばし沈黙していたが、やがておもむろに答えた。
「狼の時代がおとずれようとしている。魂を燃やし決断できる者、それこそが我が仲間に相応しい」
決して命を救われたから、その恩に報いようと思ったのではない。アーヤはザイドリックの言葉に知らず知らずのうちに惹き寄せられていた。
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