第一章 アーヤ・エアリーズ

 彼女の悲運を橋の上から目撃していた者がいた。メイド服姿、同じぐらいの年齢の少女だった。河原で血に染まった彼女を見た瞬間、びっくりした様子で橋を駆け、そのままどこかへ走り去った。


 苦しい息の下、アーヤ・エアリーズは数日前までの日常を思い出していた。その中で、彼女は女工として懸命に働いていた。家族を助けるために支度金を残して、一三歳で周辺の寒村からタンデスベルクへ働きに出たアーヤはそこでSR社のタンデスベルク機械工場に就職した。

 SR社はちょうどその年にタンデスベルクで新型の工場を建設し操業を開始した企業であり、その工場では大型の製造装置が蒸気機関と圧縮空気の組み合わせで動く複雑な機械部品を製作していた。その機械部品がどのように使われるのか、なにを構成する一部なのか、アーヤには皆目見当もつかなかったが、天性の適応力を示して生産性を比類なきレベルにまで向上させた。

 最初は製造ラインの一女工に過ぎなかったのだが、短期間に卓越した実績を重ねて、数年のうちに班長、ライン長、そして一五歳になったときには工場長がもっとも信頼する片腕となっていた。女工上がりだったので、肩書はフロア長という現場責任者だったが、実質的に全ての従業員を束ねるほどにその統率力は抜きん出ていた。


 だれも歳若いアーヤに反発を抱かなかった。同僚たちの悩みを聞き、励まし、的確に人員を配置しつつ、自分は他の何倍も働く、そんなアーヤに敵意を抱く者などいるはずがなかった。

 毎日労働に従事し、休日という概念が存在しない女工の生活において、彼女たちの楽しみは夕食後、就寝前に交わすたわいもない将来への漠然たる希望の数々だった。大部屋に三段ベッドが立ち並ぶ寮室は粗末な作りで、暖房設備すらなかったが、そこでアーヤたちは毎日淡い願望に満ちたおしゃべりをくり返したのだった。

 ある者は給金を貯めて独立する夢を語った。また、ある者は白馬の王子が不遇の身の自分をいつか救いに来るというありもしない夢を真顔で語るのだった。なんの希望も見出せない憂き世において、自由を認められたわずかな時間に夢を語る、それが彼女たちに許された唯一の至福のときだった。


 ある日、昼食を終えて職場に戻ったところで、アーヤは突然の眩暈に襲われた。ここ数日、妙な倦怠感を覚えていたが、疲労が蓄積しているだけだと思っていた。そんな矢先、次第に目の前が暗くなって歩けなくなった。あきらかにおかしい。床にひざまずいたところで、ようやくその異変に女工の中で一番の年長者だったエマが気付いた。

「アーヤ、どうしたの? 体調が悪いんだったら、工場長に申請して休ませてもらったら・・・」

 その刹那、アーヤが喀血した。たちまちのうちにフロア一帯が悲鳴に包まれた。

「アーヤ、アーヤ! だいじょうぶ? ねえ、どうしたの」

 少女たちは口々に叫び、皆アーヤのそばに駆け寄った。だが、そこでアーヤは意識を失ってしまった。


 一刻後、救護室のベッドで眠っていたアーヤの元へ医師が駆けつけ、診察をおこなった。口ヒゲをたくわえた医師パウル・ブラントはなにやら工場長クルツ・ロールバッハと話し合っているようすだった。かれらの顔に苦渋の色がみえる。

「我々に選択肢はない。神のご加護を信じるのみだ」

 そう言って、ロールバッハは顔を上げた。

 ちょうどそのとき、アーヤが目を覚ました。けだるげな眼差しであたりを眺めている。

「アーヤ・・・」

 マスクをつけたロールバッハが悲痛な表情を浮かべて話しかけた。

「ブラント先生の診断結果が出た。おまえは結核に侵されているらしい」

 それは死の宣告に等しかった。この時代、結核を完治させる治療方法は十分に確立されておらず、罹患は即ち高確率で死を意味した。

「・・・そうですか。わたしは結核に・・・・」

 ようやくそれだけ口にした。

「すまないな。これまでにおまえがこの工場で果たした仕事ぶりには感服している。いや、わしの四〇年にもおよぶ工場勤務の人生においても、おまえの実績は他に比類するものがないほど傑出していた。単に仕事ができる者はいっぱいいたが、おまえは仲間たちを鼓舞し、その力を糾合させた上で、先頭に立って統率していく力量があった。だからこそ、おまえを失うことが悲しい」

 ロールバッハの顔は苦悶に歪んでいた。

「結核は周囲に伝染する。・・・だから、わしは工場長としてすぐにおまえを解雇し、工場の敷地内から出さなければならない。どうか許してほしい」

 アーヤの脳裏に苦労しながらも仲間たちと日々働いた記憶が甦った。しかしそれも一瞬のこと。アーヤは静かにうなずいた。


 退職の準備が整えられて、アーヤは身の回りの日用品、そして二年間の給金 ──ただし寮費、食事代等を除けば残りわずかだった── を受け取った。立会いを兼ねて、ロールバッハが見守っている。

 そのとき、エマを始めとした女工たちほぼ全員がアーヤの元に駆けつけた。彼女らはロールバッハの前でひざまずき、懇願した。

「工場長様、どうかアーヤをやめさせないでください。アーヤはあたしたちの希望なんです。アーヤがいたから、あたしたちは希望を失わずに働くことができた。アーヤがいたから、難しい仕事でも乗り越えることができた。アーヤのいない仕事場なんて想像もできない。あたしたちみんなで話し合ったんです。結核はサナトリウム(療養所)で治療すれば治ることもあるって。そのための費用はあたしたちの給金全部を充ててもらってもかまわない。それでも足りなければ、ここで一生涯働いてもいい。とにかくアーヤを助けてください!」

 血を吐くような訴えだった。女工たちはロールバッハの目に涙が溜まっていることに気付いた。握り締めた拳がわなわなと震えていた。

「みんな・・・」

 アーヤは感無量でその場に立ち尽くした。

 だが、次のロールバッハの言葉は哀訴する女工たちにとどめを刺すものだった。

「・・・わしは工場長として決定を守らねばならぬ。結核に感染したアーヤ・エアリーズは本日この時間を以って解雇となった。退場するように」

 それを聞き、アーヤは達観したように表情を落ち着かせた。

「ううっ、アーヤァ~~」

 女工の中でも一番の泣き虫だったちびのケイトがたまらずその場に突っ伏して号泣し始めた。釣られたように全員が泣き出した。

「ごめんね、みんな。もうわたしはいっしょに働けない。でもきっとみんなは元気でやっていけると信じてる」

 それだけ口にすると、アーヤは一礼して出口へ向かい歩き始めた。

「アーヤ、アーヤァ!」

 同僚たちが口々に叫んだが、もうアーヤは振り返らなかった。アーヤが通り過ぎた後、工場の門が鉄の音を軋ませて閉じた。


 大陸暦九三五年、こうしてアーヤの回想は終わりを告げた。もはや何も残されていない。ただ、静かに最期を迎えるのみ。

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