絶海とささくれ

最後のジャスミンティーにお湯を注ぐと途端に甘い香りが立ち昇りました。お茶を淹れながら混乱した頭を冷やします。大丈夫。アロンソさんみたいなもんです。騎士か王女かの違いだけで。


「信じてないんだろ。」


「し、信じてますよ」


クロエさんはお茶に口をつけず、立ち昇る湯気をじっと見つめています。


「こっちでは祝福の帝都と言うらしいな。」


「そうですね。機械と祝福で溢れた幻の帝国。子どもでも知ってます。」


クロエさんに懐中時計を返しました。まだ動揺で手が震えています。


「かわいそうな娘と思って貰っても構わん。ただ、聞いてくれ。お前に聞いて欲しいんだ。」


まだあどけなさの残る少女は今までになく強い光を目に宿していました。なんであれ、真摯な態度で受け止めるのが私の務めのようです。私は姿勢を正しました。


「この懐中時計は帝国内の立場を示す、いわば身分証明書だ。」


右手でマルクさんの時計を目の前に吊るしました。


「これは中将クラスの紋章だ。そしてわたしのこれが王族の紋章。敵の上に座し、大地を覆い尽す、アーカナムの樹だ。」


そう言って左手にもう一つの懐中時計をぶら下げると、それはぼんやりと発光し始めました。


「待ってください。確かにそれは我々の技術では作れない代物です。それは認めます。仮に祝福の帝都があったとしても、どうやってこちら側に来るんですか。私は王女を連れたご一行が谷から上がって来るのを見たことがありません。」


「聞いているだろう。絶海からだ。」


「いや、しかし、」


絶海を通れる船なんて存在するはずがありません。数千年前ならまだしも、海の巨獣の縄張りである絶海の上を通ればすぐに食われてしまうでしょう。


「我々はこちら側とは技術レベルが違う。創獣類に匹敵するサイズの潜水艦を作れば、海の巨獣など恐るるに足らん。」


なんとなくマルクさんの話と符合します。


「じゃあ、なんで、なんのために?こんな技術の遅れた所へ?」


「外海との接触は人類がかつての栄華を取り戻すための重要な段階だ。なぜなら文明の復興は父上の悲願だからな。」


「なるほど。筋は通りますね。でも、船は?なぜ約束の場所に来なかったんです?もしその話が本当なら何人もの人生を狂わせたことになりますよ。」


クロエさんの表情が翳り、ぬるくなったお茶を口に含むと言葉を続けました。


「恐らく、機雷だ。前世代の。奇跡的にシステムが生きていたんだろう。一瞬だった。船底が吹き飛んだのは。試験運用の航路を外れたのがまずかった。」


クロエさんは湯呑みを強く握りました。


「沈没する船の救命艇は数が足りず、階級順に乗っていった。酷かった。死を悟った兵士が半狂乱で救命艇に乗り込もうとするのを近衛兵達が撃ち殺しながら船を出した。血の匂いを嗅ぎとった鮫が生きたまま兵士を海中に引きずりこむんだ。それを尻目に逃げた。」


クロエさんは湯呑みを見つめ、汗を拭いました。


「た、食べ物もすぐに底を突いた。階級順に食べるんだ。だからわたしは飢えなかった。でも、近衛兵の下の者達は水も飲めない。狭い船の中で、恨めしげにわたしを睨みながら死人が出たのは5日目のことだった。中将や大将が守ってくれたが、すぐに秩序が無くなるのは時間の問題だった。だから、だから、」


クロエさんは冷えたお茶を震える手で一気に煽り、きつく目を閉じました。


「に、人数を減らすことになった。わたし以外。くじで。半分に減った。皆、冷たい海に沈んでいった。くじが当たった瞬間に頭を撃ち抜くんだ。ち、血塗れになりながらも皆、わたしを守ってくれた。でも、結局は、一人になった。誰もいなくなった。難破から3週間。ようやく陸に着いた。寒かったし、怖かったし、お腹が減って喉がからからだった。偶然にも海辺の都市が近くにあった。だから、そこで食べ物を貰おうとしたんだ。まだ、王女の気分だった。皆が自分に仕えてくれると思ってた。自害した大将も、わたしを殺そうとして見せしめに生きたままサメに食われた近衛兵も仕方ないと思っていた。だから、一番大きな館の扉を叩いた。ここなら食べ物も余っているだろうと思って。でも、そこが娼館だったなんて知らなかった。そ、それからは、それからはな、すごく怖い思いをしたんだ。ううん。それが始まりだった。わ、わたしは何も考えずに」


耐えるように目をきつく閉じ下を向きながら、震えるクロエさんの手をそっと握りました。


「クロエ。」


「と、閉じ込められたのは真っ暗な、へ、部屋で」


「クロエ!私を見て下さい!」


クロエさんは頬を濡らし、怯えた顔で私の目を見ました。


「言いたくないなら、思い出したくないなら、話さなくて良いんですよ。」


「で、でもシモンだって、」


私はクロエさんの隣に片膝を突いて言いました。


「私は話したかったから話したんです。もしそれがクロエさんにとってプレッシャーになっていたなら、謝ります。良いんですよ。大丈夫です。これまでに何があったとしても、今のクロエさんが好きですよ。」


「...うん」


背中に手を回し落ち着くまで頭を撫でていました。そして、しばらくそのまま時間が流れました。ろうそくの炎は慰めるようにゆっくりと揺れています。




クロエさんは鼻の頭を赤くしたまま、淹れ直したジャスミンティーを啜りました。


「こういう訳だ。だから、わたしは何としても帝都に戻れねばならん。」


「ふむ。」


私は椅子に背を預け、天井を見上げました。信じ難い話ですが、難しいだけで不可能ではありません。それに物証もあります。これ以上確証を得ようとするのは不粋でしょう。きっと、相当の覚悟を持って話してくれたのですから。


「そういうことでしたら折角ですので、祝福の帝都のことを教えてください。私も子供の頃憧れたものです。実際はどんなふうなんですか?」


にっこりと笑ってそう聞くと、クロエさんの顔がいつもどうりの明るさに戻りました。


「聞きたいか?良いぞ!あのな、まず乗り物が違うんだ。」


クロエさんはさっきとは打って変わって嬉しそうに手振り身振りを交えて説明してくれました。通りを走る馬のいない馬車。電気で灯る明かり。由緒正しいアーカナム家。見たことのない世界に私もわくわくしました。


「すごいだろう!アーカナムは!」


「本当ですね。戻りたくなるのも無理はありません。」


「でも、迷ってたんだ。」


クロエさんは机のささくれを触りながら言いました。


「一緒に暮らさないか、って言われたとき嬉しかった。それはそれで楽しいかもしれないと思った。でも、きっといつか後悔する。行けば良かったって。失くせないものが増える前に発つべきだったって。アーカナムのことを思い出すうちに決意が固まったよ。」


いつになく晴れやかな表情でした。


「じゃあ、行くんですね。」


「うん。」


思わず顔が綻びます。マルタさんの背負った諦めとも、アロンソさんを覆っていた空虚な羨望とも違う、眩しい笑顔です。目を細めてしまいそうなほど。クロエさんはそわそわと落ち着きなく黙って、自分の懐中時計を開いたり閉じたりしています。釣られて私も手元の懐中時計を見ると長い時間が経っていたことに気付きました。時間が分かると急に眠気が下りてきます。疲れが思い出したように瞼を重くします。


「そろそろ寝ますね。おやすみなさい。」


席を立とうとするとクロエさんは咳払いして私の注意を向けさせました。なぜか頬が赤くしています。


「シモン。私からも提案があるんだ。」


「なんでしょう?」


「ええと、何と言うか。あのだな。」


私は座り直しました。クロエさんは柄にもなくもじもじとして、続きを中々話そうとしません。


「無理なお願いでなければ、可能な限りお応えしますよ。」


その言葉に意を決したように顔を上げ言いました。


「わたしと一緒に来ないか!シモン!」


「え、」


頭を金槌で殴られたような衝撃が走りました。どこに?まさか?


「しゅ、祝福の帝都を見たくないか!」


声が上ずっています。


「いや、でも、」


矢継ぎ早に繰り出される言葉に混乱して口が動きません。


「わたしは王女としてお前の労に報いたいのだ。」


そんな選択肢、考えたこともありませんでした。だってついさっきまで祝福の帝都なんて存在しないと思っていたのです。それに、関所で働く私がそんなことをして、イムラや、親方や、ジェシカさんになんと言えば...


「ダメ...だろうか?」


クロエさんが心配げに表情を伺っています。なぜ、こんな提案をするのか。意図は?目的は?私はどうすれば?どうすれば最善だろうか。頭の中で幾つものボールが跳ねているようにあっちこっちに思考が飛び、何一つ満足な答えが出ません。でも、なんとなく


「無理に決まっているじゃないですか。」


そう言うべきだと口を開いたつもりでした。なのに、


「考えさせてくれませんか」


自分で言った後に驚きました。そして後悔しました。期待させるなんて残酷です。クロエさんが嬉しいような寂しいようなそんな顔でぎこちなく笑いました。


「うん。そうだよな。すぐには。すまんな。」


私も苦しいほどにぎこちない笑みを返しました。

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