リッチマンの所業とアーカナム

「これなにー」


「塩だよ。やってみたい?」


「うん!」


オリーブが一杯に詰まった瓶にこれでもかと塩を注ぎ込みます。なんでもやってみたい年頃なのか、エリさんは嬉しそうに塩の入った袋を傾けています。


「これは何を作ってるんですか。」


アヒトさんがクロエさんに訊ねました。


「シモン、答えてやれ。」


クロエさんも分かってなかったようです。


「オリーブの塩漬けです。塩に漬けてアクを抜くんですよ。3ヶ月くらいで大体全部抜けます。」


「生じゃ食べられないのか」


とクロエさん。


「食べてみれば分かります。」


そう言うとクロエさんは口を開けて待っているエリさんの口に一つ入れました。


「う!」


途端に顔が歪みます。


「にがい。なんかぴりぴりする。」


渋い顔で舌を出しました。


「あ。」

「あっ!」

「げっ!塩!塩!」


あまりの渋さに手元が狂ったのか袋の注ぎ口は瓶を外れ、盛大に机に塩が撒き散らされました。クロエさんが机の上に電光石火の速さで袋の口を握り、流失を止めました。


「アヒトさん!塩の入れ物取って下さい!」


「これか?」


「はい。ありがと....あ、違う、これ砂糖です!」


「ベロにがいー」


「エリ、この中にそのオリーブ吐き出しな。いや、そっちはオリーブの瓶!ストップストップ!」


アヒトさんたちが来て数日、嫌になるほど賑やかです。




今日はオリーブの収穫から加工まで一気にやったので疲れました。というか、ちっちゃい子の相手をするのが疲れました。慣れて無いんです。なので、今日こそはあれをやろうと心に決めていました。


「皆さん、もうお風呂入りましたね?」


「入ったよー」


「俺も。」


「わたしは一番風呂を貰った。悪いな、いつも。」


クロエさんはいつ頃からか、必ず一番風呂に入るようになりました。なぜか聞くと


「別に、これと言った理由は無いんだぞ。ただなどちらかと言えば、飽くまでどっちが良いかと言われたら、シモンより先に入っておきたいなと思うんだ。他意は無いぞ。だから気にしないでくれ。本当に。」


と、あたふた説明していました。クロエさんも年頃でしょうし、私も大してなんにも気にしませんが、何と言えば良いんでしょうか。このじんわりと沁みる切なさは。世の父親はこんな感覚をいつも味わっているのでしょうか。いえ、そんなことは今はいいんです。


「なんでにやにやしてるんだ。」


クロエさんがエリさんの髪をタオルで拭きながら不思議そうな顔をしています。


「今日はリッチな気分を味わうんですよ。これでね!」


この前買った芋焼酎を掲げました。


「風呂で酒を飲む。これぞリッチマンの所業です。」


「ふうん。そんなものか。やったことあるのか?」


「始めてだから心躍るんですよ。」


「あっそ。頑張れ。」


クロエさん達は関心が薄れたようでボードゲームに興じています。まぁ、子どもには分からないでしょう。私は湯船に浸かると御盆を浮かべ、お猪口にお酒を注ぎました。うん、冷えてるのも良いですがこれはこれで香りが立って素晴らしい。いやぁ、リッチな気分です。冷えた体が熱いお湯に溶けていきます。なんて安上がりな贅沢なんでしょうか。ゆったりと浸かっているとエリさん達の笑い声が時折、風呂場にまで聞こえます。

ここ数日はクロエさんはエリさんに抱きついて頬擦りしながら寝ているので、私の出番はありません。他の人と寝る時に触れ合っていれば良いようです。代わりに私の部屋に布団を敷いてアヒトさんが寝ています。我々は互いの少しの物音が気になってしまってなかなか寝られません。そう考えると、クロエさんは他人が隣にいてよく寝れるものだな思います。随分とエリさんのことを可愛がっていますが、いつか別れが来ることを分かっているのでしょうか。いや彼らの事情を全く知らないクロエさんは、彼らがここに留まり続けて街に住むようになるかもしれない、と期待していてもおかしくありません。もしもそうなったら、それはクロエさんが谷に下りない動機の一つになるでしょうか。気怠げに立ち昇る湯気は何か言いたげです。分かりません。しかし私には悩んでも詮無いこと。本人達が決めることです。温燗になった焼酎を口に含むとリッチな気分に拍車が掛かります。ああ、いい気持ちになってきた。



「もじゃもじゃー」


「こら、タオル捲っちゃダメ。」


私はタオル腰に巻いたままダイニングに倒れていました。


「あんた、馬鹿じゃないのか?」


アヒトさんが心底面白そうな表情を浮かべて見下ろしています。


「わたしもそう思うぞ。シモン。」


「エリもー」


こう言われても仕方ありません。あの後、完全にのぼせてしまい風呂場で倒れこんだ私を見つけたのはアヒトさんでした。あまりに長風呂なのでクロエさんがアヒトさんに見て来るように頼んだのです。アヒトさんに引き摺られてダイニングに寝かせられ、今に至ります。情けなくて涙が出そうです。


「えっと、何かして欲しいことはあるか?」


クロエさんが目をそらしながら聞いてきました。目のやり場に困るのでしょう。


「ええと、じゃあ、私の部屋の引き出しの1番上から気つけの薬を持ってきて下さい。アルコールの入ってない方。」


「分かった。」


クロエさんは走って行きました。


「ほら。水ここに置いとくぞ。もう大丈夫か?」


アヒトさんが無理矢理にやにやを抑えて変な顔をしています。


「ええ。大丈夫です。もうだいぶ良くなりました。」


私は起き上がり、壁にもたれかかりました。ひんやりとしていて心地が良いです。


「じゃあ、もう寝るわ。疲れたし。」


「ご心配おかけしました。」


「心配してないって。こら、エリ。タオル捲っちゃダメだって。」


「おやすみもじゃもじゃー。」


「おやすみなさい。」


彼らが廊下の方に消えるとしんと冷えた空気に音が澄みます。火照った体もだいぶ冷えてきて、寝間着を着ないと風邪を引きそうです。




「これだろ。」


アヒトさん達とすれ違いに戻ってきたクロエさんの手には気つけの薬の入った小瓶が握られていました。


「ありがとうございます。」


鼻の下に気つけの薬を塗ると少ししゃっきりとしました。


「いい加減、服着ろ。ほら。」


私の足元に寝間着を放ると、眉間に皺を寄せ難しい顔で椅子に座りました。

「あ、ありがとうございます。」


私はいそいそと寝間着に着替えました。なんでしょう。怒られるのでしょうか。そりゃあ、馬鹿なことをしたなと反省していますが、やってみなければ分からなかったことです。私はそんなに悪くないと自分に言い聞かせても、自然と正座をしてしまいます。私は判決を待つ被告の気持ちでそわそわと小瓶をいじっていると、クロエさんは神妙な表情で私を見据えて言いました。


「お前の引き出しにあったものの中で聞きたいことがある。」


ポケットから何かを取り出し机の上に置くと、それは硬い音を立てました。私は机の上の何かを見るために正座を崩すと、クロエさんは尚も心配げなそれでいて期待するような、奇妙な顔で続けました。


「シモン。わたしの目を見てくれ。本当のことを言って欲しい。」


机の上にあったのは、かつてマルクさんが置いていった懐中時計でした。


「え?これは自動巻と言われる特殊な機構で動く」


「違う!そんなことを聞いてるんじゃない!」


バン、とクロエさんが机を叩き、あまりの音にたじろぎました。


「どこで!誰から手に入れた!言え!」


興奮で唇を震わせるクロエさんに私はますます混乱しました。


「ど、どこで?ええとそれは、マルクさんという...」


わけが分からないものの、クロエさんの取り乱した様子から、弁明するように手に入れた経緯を説明しました。私の説明のある時点から落ち着きを取り戻し、目を閉じて話を聞いていました。


「...という、ことです。えっと。クロエさん?大丈夫ですか?」


恐る恐る顔を覗き込みましたが返事はありません。苦悩するような表情でとても長い間黙って下を向いていました。カタカタと、風が窓を揺らします。何か不味いことを言ったでしょうか。瞬きで動くクロエさんの長い睫毛だけが、部屋のなかで動く唯一のものです。私は居心地が悪くなり、再び正座をしました。その刹那クロエさんは顔を上げ何かの決意を秘めた表情で自分の懐に手を入れると、私に向かって何か銀色のものを放り投げました。危うく落としそうになりながら掴むと、それは蓋に大きな樹の彫ってある懐中時計でした。


「これは?」


恐る恐るひっくり返すとそこにはマルクさんのものと同じ自動巻機構が備わっていました。これは、まさか。


「わたしは、」


そこで言葉を切るとゆっくりと息を吐き、私の瞳の奥を見つめました。綺麗な。綺麗な色をした澄んだ瞳に私は思わずゾクリとしました。とても美しい朝焼けを見たような、ある種の完成された瞬間を知ったような、そんな感覚です。一言一言を大事に、そして朗読するような冷たさでクロエさんは言いました。


「わたしは、クロエ・アーカナム。アーカナム帝国の王女にして、王位継承順位第一位の姫である。」


私は空いた口が塞がらず、口をしばらくパクパクさせた後


「お茶でも飲みます?」


声が裏返りました。

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