注連縄と今
親方の勧めで数日仕事を休みました。本来すべきであった遺品の整理や、役所への書類の提出は手をつけずに放置してありました。当時、すでに役所で窓口係として働いていたイムラが役所への書類は全て引き受けてくれました。そういえば、そのことの礼を今でも言いそびれています。昼頃に目を覚まし、半分腐ったような芋を茹でて口に放り込みました。そして少しの干し肉を食べて部屋でじっとしていると、猛烈な吐き気を感じました。胃液にも浸かっていないような噛み砕かれたものたちはトイレの中で従順に鎮座しています。父は、もっと苦しかったのだろうか。水面に映る自分を見ながらそう思いました。
寝て、起きて、食事をし、吐く。数日続いた頃でしょうか。夜中に急にスイッチの入ったように目が覚めました。眠気は頭の中のどこを探してもいませんでした。奇妙に思いベッドの上でぼんやりしていると、ある思いつきが思考を占領しました。
「底知れぬ深みに行ってみよう。」
急にやる気が出てきました。そうすべきだと感じたのです。
日の出の頃には谷の入り口に着きました。何をしたいか、何のためか、そんなことは分かりませんでした。ヤマナラシの木が誘うように風に揺られて音を出しています。
「よう。早いな。」
びくりと身体を震わせて周りを見回しました。すると、すぐ近くの岩の上にエフタさんがパイプを燻らせているのを見つけました。あまりに風景に溶け込んでいて気付かなかったのです。
「エフタさん、何やってるんですか?」
「一服な。」
カツン、と岩で叩いてパイプの灰を落とすと布に包んで懐にしまいました。
「そうじゃなくて、」
「今年は雨が多かったからな。地滑りを起こしてないか見に来たんだよ。来月だろ。骨拾い。」
すっ、と立ち上がると私の前を横切って谷の方に歩いていきました。なんと間が悪い。そう思いました。それでも、ここに来た理由を聞かれなかったのは幸いでした。自分でも答えられなかったでしょうから。私は踵を返して街に向かおうとすると、エフタさんが声を上げました。
「来ないのか?お前も用があるんだろ。」
それだけいうと、また歩き始めました。この人が何を考えてるか分かりませんでしたが、取り敢えずついていくことにしました。
「なんで、こんな、時間に?」
「昼から仕事あるからな。」
エフタさんのペースは想像以上に早く、息が切れました。早朝の谷には陰気な湿気が満ちています。何も言わずにエフタさんはぐんぐん先に行きます。本当に確認しにきただけのようです。歩いていると腐臭が鼻を突きました。道の途中にまだ原型をとどめている死体が落ちていました。文字通り、落ちていたのです。石ころのように。私は思わず鼻を覆いました。エフタさんは一瞥すると興味なさそうにまた歩き始めました。
「良いんですか?あれ?」
小走りに近付いて聞きました。
「今回は地滑りの確認だ。道が塞がっていなければそれでいい。」
言葉数少ないエフタさんの真意は全く汲み取れませんでした。歩くうちに注連縄の垂れる終着点まで着くと、エフタさんはまた岩に座り一服し始めました。私には注連縄の向こうはこちら側と変わりが無いように見えました。でも、何か惹かれるものがあったのも事実です。
「行かないのか。」
出し抜けにエフタさんがそう言いました。
「え?いや、別に。」
「死ぬのは怖いもんな。俺だって怖い。」
紫煙は縄のように長く伸びていました。
「お前の親父さんは怖かったんだろうか。」
パイプを咥えたまま、エフタさんは来た道を引き返し始めました。
「あの、」
「ん?」
「止め、無いんですか?」
エフタさんは面倒くさそうに煙を吐き出しました。
「好きにしろ。」
それだけ言うと変わらぬペースで帰って行きました。私は注連縄に手を掛けて考えていました。考えれば考える程に死の恐怖が蛇のように纏わりついてきました。死にたくはない。でも、なんで?答えは出ないままその場を立ち去りました。
帰ると、遺品を整理しました。驚く程物が少なかったのは傭兵時代の癖でしょう。父のベッドの下からは見慣れぬ剣が出てきました。そこには
「お前の生まれるきっかけの一つだ。」
そう書き添えられていました。母との出会いに関係していたのでしょうか。父からは結局、ほとんど母について聞かされませんでした。ベッドに寝転び天井を見ていると、猛烈な空腹を覚えました。パスタとチーズと卵しかなかったので、チーズを砕いて生卵と混ぜそこに熱々のパスタを入れて食べました。父に教えてもらった料理です。不思議なことにその日から吐き気を催すことはなくなりました。あれ程美味しいパスタは初めてだったと思います。
そこから数年間、親方のところで働きました。起きて仕事に行って、帰って寝る。親方の心配もジェシカさんの気遣いも煩わしく、誰とも話さずに一日を終えることもありました。息を吸って吐いているだけの生活でした。何もしたくありませんでした。そんなある日、既に市長になっていたイムラが声を掛けてきました。
「お前、土いじり好きだったよな?」
「ええ、まぁ。趣味程度ですけど。」
意図が分かりませんでしたが素直に答えました。
「関所作るんだけど、やってみないか?」
イムラの話は魅力的でした。街を離れたいという思いも強かったのですが、街と底知れぬ深みの間に住むというのは私には相応しいと思いました。そして、今に至ります。
「こんなところですね。大した話ではありませんけど。クロエ?」
クロエさんは寝てしまったようで返事をしません。繋いだ手はまだ寝たにしては温かくありませんでしたが、もう立ち去ることにしました。クロエさんの頭にそっと手を置くと柔らかい髪の感触が愛らしく、思わず顔が綻びます。
「でも、今は」
その先の言葉は広い荒野の中にあります。私には到底見つけられないでしょう。それでも、今の私にはぴったりな言葉のような気がするのです。もう一度心の中で繰り返しました。
でも、今は
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