溢れた水とジェシカ
日暮れ頃に家に帰ると家の前で大工の棟梁が煙草を吸っていました。「よう。」
「こんにちは。」
「ちょいと話があるんだ。玄関先で良いから上げてくれよ。お茶も欲しいね。」
ニコニコと嬉しそうな棟梁の態度がひどく癪に触りました。
「どうぞ。」
「悪いねぇ、って熱いな。冷たいのが良かったな。」
わざとです。
「それで、お話ってなんですか。」
私は早く帰って欲しい一心でした。今は一人になりたかったのです。誰とも話したくありませんでした。
「骨拾い、今年あるの知ってるだろ。」
「そう、でしたね。私はまだどういうものか知らないんですけど。」
3年に一度の行事なので、まだ経験したことはなかったのです。
「そうだろうな。んでだ、そのメンバーにお前が選ばれたんだ。」
「はぁ」
棟梁は私が喜ぶのを期待していたようで一拍置いて反応を待っていましたが、私の白け具合に咳払いします。
「あのな、お前は知らねぇだろうけど、骨拾いのメンバーは寄り合って決めるんだ。誰もが行けるわけじゃねぇ。特に子供はな。」
「そうなんですか」
「いや、だからな。相談した結果、お前はもう一人前の男だってお墨付きを貰ったんだよ!親方のところで真面目に働いてるし、しっかり者だし、父親の世話までしてる。この街ではな、男は骨拾いに行って初めて成人したってことになるんだ。」
「そうなんですね。」
「イムラなんて、話題にも登らなかったぞ。お前の一つ上だけどちゃらんぽらんだからな。この前は唇をクワガタに挟まれて病院行ったんだよ。ほんと、何してんだか。だからな、皆お前のこと認めてんだ。」
だから、なんですか?そう言いたくなるのを堪えました。
「ありがとうございます。でも、私は父の世話があるので。」
「えっ?」
棟梁はぽかんとしました。
「行かない、ってこと?」
「はい。」
棟梁は眉を顰めました。
「あのな、そういうもんじゃないんだ。断るとかそういう。」
「でも、父の世話があるので、」
「いや、分かるけどよ、一日ぐらいどうにかなるだろ。大切な行事なんだよ。」
どうにかって、どうすれば良いんだよ
「それに、選んでくれた葬儀屋の爺さんの顔を立てると思ってさ。」
なんで、そんなことしなくちゃならないんだよ
「爺さん、骨拾い行けるの今年で最後なんだよ。今年でリーダー引退だからよ」
そんなの
「知らねぇよ!」
気付けば叫んでいました。グラスの水が溢れていくようでした。
「俺には関係ねぇよ!どうにかってどうすりゃいいだよ!」
棟梁は私の剣幕に気圧されておろおろとしています。
「飯も一人で食えない、小便だって世話が必要なんだ!誰がやってくれるんだよ!父さんのおむつを変えるのを、他人にやらせるわけにはいかないだろ!何も知らないくせに!」
頭の芯が熱くなり、今まで抱え込んだものが決壊しました。
「これ以上、何をしろって言うんだ!もう一杯一杯なんだ!限界なんだよ!もう何も求めないでくれ、ほっといてくれよ!骨拾い?そんなの知らないよ!俺は今日をやり過ごすのに精一杯なんだ!」
滝のような涙が壊れたダムのように流れました。
「もう、ほっといてくれよ。もう限界なんだよ、もう嫌だもう嫌だもう嫌だ。もう無理だよぉ。」
蹲って叫ぶ私にごめんな、ごめんな、と繰り返す棟梁の言葉は耳に入りませんでした。私は壊れてしまう寸前だったのだと思います。叫びながら泣き続け、気が付けば夜になっていました。いつの間にか棟梁は居なくなり外は真っ暗になっていました。私は立ち上がる気力もなくそのままその場で朝まで寝てしまいました。私は何も考えていませんでした。壁一枚向こうの父が聞いているということを。
「ごめん仕事で疲れて眠っちゃてさ。」
「大変だったな。」
次に日の朝、重い頭で朝食を作っていました。
「シモン。父さん食欲ないから、いらないぞ。」
「分かった。」このときには決心していたのでしょう。私は何も気付きませんでした。
その日から、父は何も食べなくなりました。
「食欲が無いんだ。」
訪ねてきた親方にはそう言っていました。口に入れるのは少しの水だけです。父はみるみる痩せていきました。
「父さん、何か食べてよ。」
口元にお粥を持って行っても父は頑なに口を開きません。
「困らせないでよ、ほら。」
スプーンを口に押し付けますが、父は首を振って嫌がります。
「なんで、食べてくれないの?」
父は応えずに悲しげに俯いています。私は頭に血が上って、壁にスプーンを投げつけると父の顔に飛び散ったお粥が付きました。
「恨んでんの?そんな風になったこと?俺があのとき、縄に触らなければこんなことにならなかったのにって。後日、皆で戦えばこんな体にならなかったのにって。」
父は俯いたまま微動だにしません。
「そしたら皆幸せだったのにって。」
「ここに来てからも幸せだったよ。」
父は穏やかな目でそう言いました。
「お前が立派になってくれて今でも幸せだ。」
それは
「ごめんな。シモン。迷惑かけて。」
私が聞いた最期の言葉でした。
一月程で父は死にました。元々、痩せていた体は骨と皮だけになり見るに耐えませんでした。葬儀屋の勧めもありすぐに火葬すると、私の身体に力が入らなくなりました。それからのことはあまり覚えていません。葬儀は親方が仕切ってくださり、私は会場の隅でずっと座っていました。色んな方が挨拶に来てくれましたが、何の返事もせずただ座っていました。
「寝てな。後のことは俺がどうにかするから。」
親方はそう言って私を別室で寝かせました。目を閉じることも出来ず、ずっと壁を見つめていると、躊躇いがちなノックの音が響きました。
「入っていい?」
何も言わなくてもジェシカさんが部屋に入って来て私の隣に腰を下ろしました。あの日以来、私はジェシカさんを避けていたので久しぶりに顔を見ると、下腹がずどんと重くなりました。
「シモン?大丈夫?この前はごめんね。こんなタイミングで言うことじゃな」
私はゆっくり起き上がると下を向いて言いました。
「大丈夫ですよ、ジェシカさん。もう大丈夫です。」
ジェシカさんが言葉を失い、大きな瞳で私のことを見つめました。
「なん....だよ...ジェシカさん、って。なんだよその言葉遣い....」
「今まで申し訳ありませんでした。お世話になったのに。もう大丈夫です。もう終わりましたから。だからもう」
ジェシカさんに力なく笑いかけました。
「ずっと隣にいなくても大丈夫ですよ。」
「なんだよ....それ.....」
ジェシカさんの目に見る見る涙が溢れていきました。一度何か言おうと開きかけた口からは嗚咽が漏れるだけでした。
「あたしは変わんないよ。あんたが変わっても。」
部屋から出ていくとき、大粒の涙で頬を濡らしながらも毅然とした表情でそう言いました。初めてみたジェシカさんの涙にお腹がどすんと、重くなりました。何も考えたくありませんでした。利己的な自分に半ば諦めながらきつく目を閉じました。
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