針と約束
「最近、卸してくれるフェルトの数が減ったのよ。」
この街に住み始めて3年目のことでした。雑貨屋の女主人はきつい香水の匂いさせながら言いました。
「かわいいから人気もあってね。常連客もつくようになったんだけど、数が減って品切れが続いてるの。お父さんに、もうちょっと頑張ってって言っといて。買値上げるから。」
「はい。分かりました。」
家から出ることも少なくなった父は一日の大半をフェルト作りに費やしています。父の内職はなかなか良い値で売れるので家計に大きく貢献するようになってきました。そんな父が作る量を減らしているというのはどういうことでしょう。
夕食時にその話をしました。軽い気持ちで話したのですが、父は深刻そうな顔でスプーンを置きました。
「そんなに大したことじゃないよ。気にしなくていいんじゃない?」
父はかぶりを振りました。
「違うんだ。シモン、お前に言わなくちゃならんことがある。前のこともあるし。」
父はじっと自分の手を見つめました。
「手が痺れ始めてる。下半身のしまりがなくなったときと同じだ。ごめんな。」
父は達観したような表情で言いました。私の額から冷や汗が流れ、気持ちの悪い汗でじっとりと濡れました。時間差で襲ってくる感情の波に備えてきつく目を閉じました。もっと頑張らないといけないのか。その思いで頭が割れそうになりながら。
藁にもすがる思いで医者に連れて行きました。今までどうにもならなかったのだから、変わるはずがないのですが。
「おそらくですが脊椎、頚椎に異常をきたしているものだと思われます。最初に診察したときは下半身の麻痺でしたね?脊椎の損傷が悪化して排泄機能に影響を及ぼしたというよりは、今回の手の痺れと排泄については頚椎の問題だと思います。」
「それで、どうにかなるんでしょうか?」
「申し訳ありませんが、この小さな病院ではなんとも....追い打ちをかけるようですが、経過を聞く限り、今後は手も動かなくなることを覚悟した方がいいと思います。でも、シモン君、あれだけの大怪我で生きているというのが本来は奇跡なんだよ。辛いだろうけどしっかりお父さんを支えてね。」
簡単なことです。医者に匙を投げられただけの。
「ごめんな。シモン。」
車椅子を押して帰る道中、父はそう繰り返すのでした。私は何も応えませんでした。口を開けば何かが壊れてしまいそうで。
医者の予告通り、父の症状は悪化していきました。父はそれでも震える手でフェルトに針を刺し続けました。何度も自分の手を刺して血塗れになってしまっても。きっと最後の砦だったのでしょう。親としてせめて息子に報いるための。でも私にはそれを思い遣る余裕はありませんでした。
「もうさ、シーツが汚れるからやめたら?」
心ない言葉を父に投げかけました。父は縋るような目でしばらく私を見ていましたが、力なく微笑むと
「そうだな。もう、やめるよ。ごめんな。」
針とフェルトを置きました。
内職をやめた日を境に父の手は殆ど動かなくなりました。足は動かず、手も動かず、排泄も上手く出来ない。私の負担は限界に近付きつつありました。でも、まだ若かった父はもっと辛かったでしょう。息子の苛立ちにどうしてやることも出来ない。歯痒かったと思います。しかし、私は自分のことしか考えていませんでした。父の世話と仕事。そのために生きているのだろうかと考えました。それなら何で生きているのだろうと。グラスの水は今にも溢れそうでした。それでも、毎日を下を向いて耐えていました。そんなある日のことです。仕事の帰り、河川敷で川を見ていました。家に帰りたくなかったのです。
じっと蹲ったまま川を眺めていると、頭をポンと叩かれました。
「何してんの」
学校帰りのジェシカさんが隣に腰を下ろしました。
「川を見てるだけだって。」
「ふうん。」
きっともう察しはついているのでしょう。言いたくなければ言わなくて良いけど、これがこの頃の私に対するジェシカさんの口癖です。
「よく、三人で遊んだよな。」
「そうだね。でも、もう無理だろうね。あたしがイムラの告白を断ってからはあいつ近寄ってこないし。」
じっとしていると湿った緑の匂いがして、私は大きく息を吸い込みました。
「父さんの話、聞いただろ?」
「うん。」
「ついに、何にも出来なくなっちゃったよ」
寝転がると雲が急ぎ足で流れていくのが見え、上空は風が強いのだと気付きました。
「もう、どうすればいいか分かんないよ。もう、限界だよ。」
「うん。」
口に出せば出すほどに言葉が溢れてきました。涙だけは流さぬように必死に堪えます。
「でも、俺が辛そうにしてると父さんは謝るんだよ。謝られたってどうにもならないじゃん。やるしかないじゃん。だって父さんのせいじゃ無いんだからさ。父さんだって辛いの分かるけど、それでも上手く取り繕えないんだ。顔が引き攣ってさ。苛々してさ。そんな自分がどうしようもなく嫌だ。嫌いだよ。」
ジェシカさんが優しく私の頭に手を置きました。
「分かるよ。シモン、頑張ったね。」
その言葉に頬がぴくりと動きました。
分かる?
一体何が分かると言うんでしょうか?
「もっと頼ってよ。あたし、シモンの隣にずっと一緒にいるから。一緒に頑張ろう。」
まだ頑張れと強要するのか、何よりもずっと一緒にいるという言葉が我慢なりませんでした。
「軽々しく言うなよ。」
どろどろの感情が沸騰して体が震えました。八つ当たりだと分かっていても抑えられませんでした。私は頭に置いたジェシカさんの手を思いっきり引っ張って押し倒すとジェシカさんの上に馬乗りになり、両腕を押さえました。ジェシカさんは何が起きたか分からずに目を見開いています。
「ずっと?ずっと隣にいるだって?軽々しく言うなよ!一体その約束に何の保証ができるんだよ!父さんだって約束を破ったんだ!今、父さんは俺に守られてるじゃないか!」
ジェシカさんは私の怒鳴り声に目を泳がせ拘束から離れようともがきました。でも、それは私には本気には見えませんでした。いえ、それが全力だったのです。こんなにも力が弱かったのかと愕然としました。今や、男性と女性として圧倒的力の差があるのです。私は残酷な喜びのようなもので満ちていくのが分かりました。身を捩るジェシカさんを逃げないように押さえつけて言葉を続けました。
「お前は良いよな、どうせ他人だもの。俺は父さんが死ぬまであそこに毎日縛り付けられるんだ。いつまでかも分からないんだぞ!磨耗していくのを感じなら耐えるしかない日々が分かるかよ!もう目が覚めなければいいのにと思いながら眠ったことあんのかよ!」
ジェシカさんの顔に滴が落ちました。それは雨ではなく涙でした。私はいつの間にか塩辛い涙を流していました。
「どうせ、可哀想な親子を助けてる自分が好きなだけだろ?」
違う、こんなこと言いたくない
「本当は見下してるんだろ!何にも出来ない父親と、世話もろくに出来ない息子をさ!」
「そんなこと...」
ジェシカさんが言葉を飲み込みます。分かってるんです。そんなこと思っていないことは。でも、言いたくないことが口をついて出てくるんです。傷つけたくないのに、傷つけたいと思っている自分がいるのです。
「今まで、自分の親に死んで欲しいと思ったことあんのかよ...そんなこと考える自分を殺したいと思ったことあんのかよ.....」
いつの間にかジェシカさんはもがくのをやめてじっと私の顔を見つめていました
「お前は良いよな。他人だからさ。ずっと隣にいるって言ったって、いつか恋人が出来て、結婚して、子供が出来れば、俺と父さんのことなんか忘れてしまうんだろ?俺は父さんに縛り付けられたままだけどジェシカは違うじゃないか。そんな約束、守れやしないんだ。」
「そんなことない。」
ジェシカさんは澄んだ瞳でそう言いました。
「そんなことないよ。じゃあ、どうすればあたしの約束を信じてくれるの?何をしたら信じてくれるの?」
言葉に詰まりました。どうすれば?何をすれば?そんなの
「分かんないよ。信じ、られないよ。誰にも約束なんて出来やしないんだから。」
必死に絞り出した言葉でした。その瞬間、手の力が緩んだのをジェシカさんは見逃しませんでした。両脚を折り畳んで私の胸の前に構えると一気に後ろに蹴り飛ばしました。私は後ろによろけながら尻餅をつきました。
「頭冷やせよ。シモン。」
ジェシカさんは服に付いた草を払いながら言いました。その横顔はひどく悲しげでした。ジェシカさんがいなくなってもそのままの姿勢でぼうっとしていました。なんであんなことをしてしまったのか自分でも分かりませんでした。傷付けたくなんかないのに。
「本気だったんだよ。」
立ち去り際にジェシカさんが呟いた言葉が頭の中でいつまでも反響していました。なんでこんなにもどうしようもない奴なのでしょう。自分と言う男は。また、グラスに硬貨が落ちる音がしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます