嘘とシチュー

その日は残業し、くたくたになって家に帰りました。大きな仕事が入ったので皆、遮二無二働いています。私は父の世話もあるからと親方に早めに帰してもらいました。


「頑張ってくれてるからさ。これ、少ないけど。」


帰り際に渡された封筒には二日分の日給に相当するお金が入っていました。親方は時折、給料とは別にこっそりとお小遣いをくれるのです。働かせてもらっているのに申し訳ないと思いますが、辞退できる余裕もないので感謝して受け取ります。今夜は奮発して買ったチーズでも食べようかと家のドアを開けると、微かな異臭が鼻を突きました。ベッドの上では父がフェルトを持ったまま呆けたように外を見ていました。


「父さん?」


私は恐る恐る近付き、父に呼びかけました。返事はありません。強くなった臭いに悪い予感を感じながら掛け布団をめくると、糞尿で汚れたシーツが茶色に染まっていました。ひどい臭いに嘔吐こうとする胃を無視して暗くなった部屋で立ち尽くしました。



麻痺は徐々に広がっていたようです。最初は少ししびれる程度だったものが段々と感覚がなくなり、ついに制御する機能を奪ったのです。父は必死にそうならないように耐えていたのでしょう。いつかこうなるのではないかと怯えて。


「ごめんな」


「いいよ。大丈夫。」


「ごめんな。ごめんな」


父は小さな声で謝り続けました。誰が悪いというわけでは無いのです。


「大丈夫だから。」


悲しみと情けなさと怒りが混ざりどろどろの粘液となって頭に詰まっているようでした。汚れたシーツと服を洗い、父も風呂に入れてようやく冷静になってきました。


「おむつ、する?」


軽い調子で聞きました。そうしないと押し潰されてしまいそうだったからです。


「そうだな。」


父の声は深く沈んでいました。この日を境に、父の尊厳は一つ失われました。仕様が無いことです。でも、その現実を受け入れるには私は余りに幼過ぎました。


「いつだって守ってやるから。」


父は昔にそう言いました。私はそういうものなのだと信じていました。


「嘘じゃん。」


布団の中で小さく声を漏らしました。嘘ではないと分かっていました。ただ、未来の約束など誰にも出来ないということ、そしてそれは信じてはいけないということ学んだのです。泣きませんでした。でも、また水の入ったグラスの中にコインが溜まっていきました。まだ大丈夫。まだ溢れないさ。そう言い聞かせながら深い深い眠りに落ちていきました。


父の世話のため午前に二回、午後に三回仕事を抜けて家に帰りました。何も知らない同僚達は訝しげな目で工房を抜ける私を見ていました。父は我慢するということも段々と出来なくなってきたようで、日によってはもっと多くの時間を父の世話に充てることになりました。父の世話、仕事。その繰り返しのために生きているようでした。ジェシカさんが楽しそうに学校であったことを話すのを見て、前のように笑えなくなりました。それよりも、自分の状況への当てこすりのように聞こえてしまい、苛々としました。そんなことを考えてしまう自分が嫌で、ジェシカさんにバレるのも嫌で、笑顔でうなづくことしか出来ませんでした。きっと、ひどく歪な笑顔だったと思います。



「よう。今日はおっかあが出掛けてるからよ。一緒に晩飯でもどうだ。」


ある日のこと。ドアの前には親方とジェシカさんが何かの入った袋を持って立っていました。


「ええ、もちろんです。どうぞ。」


私は敬語の使い方が板についてきて、仕事以外でも親方や同僚達に敬語で話すようになってました。


「卵と兎の肉、それとジャガイモと玉ねぎあったから、シチューでも作るよ。」


ジェシカさんが持ってきたのはぎっしりの食材でした。


「ジェシカに、飯の作り方教えてやってくれや。こいつなんも出来ねぇんだ。イテッ。」


ジェシカさんがグーで親方を殴りました。この親子のコミュニケーションは激しいのですがなんだか面白いです。


「分かりました。私とジェシカでご飯は作りますから、父と喋って待っていて下さい。」



「それでエフタが隅石を壊しちまってな。」


親方は前より頻繁に父のところに顔を出すようになりました。あの出来事以来、父は外出を恐るようになりました。そのため人と話すことに飢えていた父は嬉しそうに親方と話すのです。間の抜けたその顔が私は嫌いでした。


「こわい顔してるよ。」


ジェシカさんに肘でつつかれて、顔に出ていたことを知りました。


「シモン、次は何すればいいの?」


「玉ねぎを微塵切りにして。全部じゃなくていいよ。半分は大きめに切って溶けないようにするからさ。」


ジェシカさんは本当に料理に不慣れなようで、手付きがとても危なっかしくので見守っていないと心配でした。


「微塵切りは、こうやって縦と横に切れ目を入れて、向きを変えて切ると早いよ。そうそう。猫の手を忘れちゃ駄目だって。」


奥さんはあんなに料理が上手なのに、娘に教えていないというのはなんだか不思議でした。


「ジェシカちゃん、綺麗になったな。」


「だろ?シモンの嫁にどうだ?」


「そんなの願ったり叶ったりだ。」


ガハハと声を揃えて笑う二人の声は大きく、私にも当然聞こえました。私はなんだか急に部屋を飛び出したくなりました。


「シモン、次。」


「あ、ええと、バターで玉葱を炒めて、」


ジェシカさんにも聞こえていたようで、耳が真っ赤なのに気付きました。顔には表れなくてもこういったところは正直なのです。夕陽に赤く染められた部屋で父達は笑い声を上げ、私はジェシカさんと夕食の用意をしています。ジェシカさんの拙い手付きを見ながら、とても温かい気持ちになりました。疲労の氷がゆっくり溶けていくのです。


「次は、オレガノと胡椒を、」


いつまでもこの瞬間が続けばいいのに。そして、まだ頑張れる。そんな気持ちになりました。

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