ニードルフェルトとグラス
父と私の二人暮らしが始まりました。街の皆さんは私たちを歓迎してくださり、難なく家を借りることが出来ました。偶然にも親方の家の斜め向かいで、引っ越した当日の夜には親方が一升瓶を抱えてやって来ました。奥さんの手料理と祭囃子に誘われて近隣の人たちも集まってきました。もう宴会騒ぎです。
「俺ぁ嬉しいぜ!ギデオン!おめぇといつでも酒が飲めるようになったんだからな!」
親方が車椅子の父の杯に溢れんばかりに酒をつぎます。
「ああ。これからよろしくな。」
父もなんだか嬉しそうです。
「しかし、何にも無い家だな。家具ぐらい端材で作ってやるよ。おい、俺にも酒だ。」
エフタさんは珍しく酔っているようです。家の中に何もないのは当然といえば当然のことでした。今までは馬の背に載せられるだけの荷物で暮らしてきたのです。寒さや水に困ることはもう無いでしょう。私は酔っ払った大人の絡みを避けて、ウッドデッキの端に近所の子供達と座っていると
「よろしくな!シモン!」
ニヒヒと笑いながらジェシカさんが肩を組んできました。
「うん。」
なんだか恥ずかしくて気の利いたことが言えません。でも、肩に回された温かい腕だけは妙に意識したものです。通りにまで椅子が並び、何のための宴会かも分からずに人々がどんちゃん騒いでいます。いつも旅をしていた私には何が始まるのか分かりませんでした。でも、その胸にあったのはとても綺麗な期待です。あれは幸せな夜でした。
「親方のところで働かせてもらえることになった。」
父はその言葉にゆっくりうなづいて
「そうか」
とだけ言いました。アモス達が置いていったお金はまだだいぶ残されていますが、それでも一生暮らしていけるわけではありません。働けない父の代わりに私が働くつもりでした。
「すまないな。俺の脚がこんな風になったばっかりに。」
「いいよ。もう14になったし、働ける歳さ。」
「そうか、14になったか。俺が傭兵になったのもそれぐらいだったな。」
父が目を細めます。重圧が無くなった父は別人のように穏やかになり、優しい笑顔で話すようになりました。
「実はな、お前が傭兵を目指さなくなって安心してるんだ。今までは言えなかったが、やはり人の親になると思ってしまってな。」
「何を?」
「自分が殺めた人間にも親がいて子がいるかもしれない、と。革職人だったな。いい仕事だ。精一杯やれよ」
「分かってるよ。」
「じゃあもう、親方には敬語を使わないとな。タメ口は貸し借りなしの対等な関係だけだ。あと家族だな。お前はそこらへんしっかりしているから心配してないが。」
「うん。」
私は父の背中を流しました。車椅子で自由に動く父も風呂に入るのだけは私の手助けが必要です。父は申し訳なさそうにしますが、私は頼られることを誇らしく思っていました。あんなにも遠かった背中はこんなにも近くにあるのです。
親方は仕事に関しては厳しく、しっかりと教えてくれました。早く一人前にしてくれようとしていたのです。ジェシカさんやイムラは学校で勉強を続けており、私とは生活リズムが違うため一緒に遊ぶことは少なくなりました。それでも、ジェシカさんとは近所のため頻繁に会っていました。工房を抜けて家に帰るジェシカさんは日を追うごとに綺麗になっていき、今までのようには話せなくなりました。今まで通りに接してくれるのですが、私の方はなんだか恥ずかしくてそっけない態度ばかりとっていました。朝から仕事をし、仕事が終わると晩ご飯を作る。そして寝て、また仕事。最初の1年は大変でした。ただ必死に毎日をこなしていました。
そんなある日のことです。父は嬉しそうに晩ご飯を食べていました。
「どうしたの?何かあった?」
ジェシカさんが差し入れてくれたスープを啜りながら聞きました。親方の奥さんは仕事のある日は毎日、一品は作ってくれます。そのとき、運んできてくれたジェシカさんと玄関先で話すのが毎日の楽しみでした。長いときは一時間は喋るのです。学校であった楽しかったこと、嬉しかったこと、嫌だったこと。私が体験したことのない話を聞かせてくれるのです。ジェシカさんの視点から見える世界は温かいものでした。
「いや、実はな。」
そのときの父はジェシカさんと同じ陽だまりの中にいるような温かい表情をしていました。
「私が作ってたニードルフェルトがな、店に卸せることになった。」
「え?そんなことしてたの?見せてよ。」
父の作品はなんだかとぼけた顔をした犬や猫でした。
「可愛いじゃん!すっごい可愛いよ!」
「雑貨屋の奥さんもそう言ってくれた。大の男がこんなの作るなんて恥ずかしいけどな。でも、家計の足しにはなるだろうと思ってな。お前ばかりに頼ってられんよ。」
手先の器用な父にはこういった作業は向いているのかもしれません。きっと傭兵なんかよりずっと。
「本当に可愛いね。」
「俺もそう思うよ。」
父が作った動物たちとおんなじ顔で父は笑うのでした。忙しいけれど充実した生活は2年続きました。
ある日、父がベッドから車椅子に移動しトイレに行く途中で
「あっ、」
と力なく声を出すと車椅子を動かす手を止めました。晩ご飯を用意していた私は不審に思い近付き、何が起きたのか悟るとぎょっとしました。黄色い水たまりは生暖かく、もう少し寒くなれば湯気が上がっただろうかと妙なことを考えました。
「我慢できなかっただけだよ。」
後片付けをすませて父を風呂に入れると小さな声でそう言いました。
「ほら、車椅子に移動するときに力んじゃって。それで近くなってね。」
そういうものか、と納得していつものように背中を流しました。一回り小さくなったように感じた背中は筋肉が衰え、屈むと背骨の場所がくっきりと分かります。少し悲しくなりました。とても儚げだったからです。
次の日、親方の家で休憩して寝転んでいると学校帰りのジェシカさんに片脚でお腹を踏みつけられました。
「えっ?何?」
「いや、元気無いなー、と思って。」
ジェシカさんは親方と違って人の気持ちにとても敏感なのです。今回ばかりはその鋭さが鬱陶しく感じました。
「眠いだけだって。」
横向きに寝転がり脚を払いのけます。
「なんかあったんだろ。」
またお腹に脚を乗せられました。
「なんも無いって。」
父の粗相について不安を感じたなんて言えません。言いたくありません。
「ふうん。」
ようやく脚をどけると、テーブルの上にあった茶菓子を食べながら私の背中の方に腰を下ろしました。
「今日さ」
最中のパリパリとした音が響きます。
「イムラに告られたんだよね。」
どくん、と心臓が大きくうねりました。
「ふうん。それで?」
私は寝たまま尋ねました。
「どうしよっかなと思ってさ。」
「そんなこと言われても知らんし。」
どうしよう、という言い方がひどく気に入りませんでした。なんでそんな曖昧な言い方をするのでしょう。自分の気持ちぐらい分かるんじゃ無いでしょうか。イムラが可哀想です。
「どうすれば良いと思う?」
「だから知らんって。」
これ以上話したくないので工房に戻り作業を再開しました。その日はつまらないミスを何度もして、親方に怒られました。なんでこんなにも苛つくのか分かりませんでした。水の入ったグラスに一つコインが落ち、水面が揺れたようでした。水ば揺れながらグラスの中で踊っています。でもいつか溢れてしまうのではないか、と親方の話を聞きながらぼんやりと思っていました。
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