一本道と鉛筆

その日から毎晩クロエさんが寝付くまで手を握るというのが習慣になりました。最初の頃はお互いがどぎまぎとしたものですが、最近は夜の読書や報告書作りの時間になりました。寝たかどうかも、手の温かさで判別出来るようになりました。お陰で、クロエさんの体調はすこぶる良く、眠そうな顔をすることはなくなりました。そんな日々が続いたある日のことです。



「おはようございます。」


「ああ。おはよう。」


「クロエの分のコーヒーも淹れましょうか?」


「うん。頼むよ。」


クロエさんは部屋から出てきてから、一切目を合わせようとしません。眠いのか機嫌が悪いのかのどちらかです。


「今日は役所で仕事のやり方を教わるんでしたっけ?」


「うん。もう少ししたら出ようと思う。早めに出た方が良いだろうし。」


食欲が無いのか美味しくなさそうにパンを小さくかじっています。


「そうですか。じゃあ、私も支度しますね。」


「えっ!ついて来るつもりか?」


えっ?一人で行くつもりだったんでしょうか


「道に迷ったらどうするんですか」


「一本道じゃないか。どう迷うって言うんだ。」


「ちょっと市長に挨拶したら帰りますから。」


「職場まで付いてくる気だったのか!付いてこなくていいから。一人で行けるから。」


とは言われても、なんだか心配です。あんな姿を見た後なら尚更です。


「一緒に行くのが嫌なんですか?」


クロエさんはこの質問に言葉を詰まらせました。


「一緒に行くのが嫌というわけではないが、なんというか、心配しすぎじゃないか?子供じゃ無いんだから。働き先にまで付いて来られたら、その、なんか、恥ずかしい。」


クロエさんが顔を赤くするのと同じく、私も赤くなりました。これでは過保護な親ではありませんか。どうにか言い訳を絞り出します。


「違いますよ。心配してるわけではないです。イムラとたまには昼食でも食べようかと思って、そのついでに送って行こうかと思ったんです。」


「そうか。なら、良いんじゃないか?あちっ!」


クロエさんは淹れたてのコーヒーを啜らずに飲んだので、舌を火傷したようです。



家を出て街に行く道中もあまり会話は弾まず、ぎこちない雰囲気が漂っていました。あの出来事以降、時折クロエさんはこういった様子です。何か心境の変化があったのか、それとも思春期か。原因の一つは私が保護者のような気分になり過ぎていたのかもしれません。そうです。クロエさんは自分のことは自分で出来る方です。ただ少しだけ弱いところがあるだけなのです。少し、距離感を誤ったのかもしれません。こんなことは初めてです。近づき過ぎたのかもと思うことは。


「なんでそんなに離れて歩いてるんだ?」


「いや、距離感が掴めなくて。」


「距離感?ふうん。変な奴。」



役所に入ると、イムラは暇そうに鉛筆をひたすら小刀で削っていました。ぼんやりと目をあげた先にいた私たちを見つけたようで嬉しそうに、にこにこしながら小走りで寄ってきました。


「おう!珍しいな!どうした?オセロやるか?」


やっぱり暇なのでしょう。


「今日は仕事を教えてもらえると聞いたのだが。」


クロエさんは無視されては堪らないと、私とイムラの間に体をねじ込みました。


「うん?そうだっけ。まぁいいや。書類系のことは何も分かんないし。サラちゃーん!この子に仕事教えてあげて!」


秘書のサラさんはすくっと立ち上がると、


「約束通りの時間に来られましたね。どっかの馬鹿は忘れてるみたいですけど。ではこちらに。」


露骨なイムラへの当てこすりを残して、クロエさんと隣の部屋に消えていきました。イムラは気付かずに鼻をほじっています。


「で、なんでお前まで?」


さっきの言い訳が頭を過ぎりました。


「たまには昼飯でも一緒に食べようかと。」


「いいね!」鳴らない指パッチンを鳴らしてイムラはそそくさと削りカスを片付け始めました。


「そんなにすぐでなくとも、まだ昼までだいぶありますし。」


「いいの。いいの。暇だし。ついでに最近できた飲み友達を紹介するから。じゃあ、行こうか。あっ、ちょっと待って。」


ドアの方に歩き出したと思った瞬間に踵を返すので、危うくぶつかりそうになりました。こんな狭いところでそんなエキセントリックな動きをしないで欲しいです。


「居ないことお客さんにはっきり分かってもらわないとね。気の利く男だぜ。」


イムラはゴソゴソと机を漁り、木に何か文字が掘ってあるものを机の上に置きました。そこには、出張中と書かれていました。嘘じゃん。

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