悪夢と煤けた鎧

夜中に目が覚めました。いつもは夜明け前に一度目が覚めてしまうのですが、今回は最も夜の深い丑三つ時の辺りで目を覚ましました。霊的な云々というより猛烈な尿意が原因です。漬物の水茄子を食べ過ぎたために喉が渇いて、寝付く直前まで水をがぶ飲みしていたのです。波のように押し寄せる尿意を押さえ込んで幾度か眠りの淵に舞い戻ったものの、このままでは漏らしてしまうのではないかという危惧により、仕方なくトイレに立ちました。永遠かと思えるほどの時間、私のダムを放流させたあと自分の部屋に向かう途中に妙な呻き声が聞こえてきました。歩くのをやめて耳を澄ませるとくっきりと女性の呻き声がどこからともなく聞こえるのです。やはり草木も眠る丑三つ時に起きるべきではなかったかと、大人ながら足早にベッドを目指す途中でさっきより呻き声が小さくなったことに気付きました。少し戻るとまた大きくなります。これはつまり、クロエさんの部屋からです。私は幽霊説をかなぐり捨てて、クロエさんの部屋のドアノブに手を掛けました。


「クロエさ...クロエ。失礼しますよ。」


怒られるのではないかという危惧よりも心配の方が上回りました。鍵は掛かっておらず、蝶番は滑らかに音もなく開きました。そのとき、暗闇の中で蠢く何かを見たときには正直、ぞっとしました。その動きがあまりに生々しい何かだったからです。しかし、目を凝らすとベッドの上でのたうち回るそれは、クロエさん自身でした。


「クロエさんっ!」


その瞬間に恐怖の種類が変わり、クロエさんに駆け寄りました。目を閉じたまま呻き、手足をばたつかせるクロエさんの肩をがしりと掴んで揺さぶります。


「クロエっ!クロエっ!どうしたんですか!起きて下さい!クロエさんっ!」


お酒がまずかったのでしょうか。それとも、何か緊急の病気でしょうか。冷や汗が、全身のいたる所で噴き出します。


「クロエっ!」


もう一度肩を大きく揺さぶると薄っすらとクロエさんの目が開きました。肩で息をし、怯えの色で染まった大きな瞳は空中をゆらゆらと泳ぎ、額はじっとりと濡れて髪が張り付いています。


「大丈夫ですか?どこか痛い所はありますか?」


落ち着かせるために頭を撫でると、その異常な寝汗に驚きました。


「夢....か....」


悪夢を見ていたのでしょうか?


「大丈夫ですよ。ここは安全です。こっちが現実ですよ。」


そう諭すとみるみるうちにクロエさんの瞳に涙が溜まり、大粒の涙が間断なく頬を伝いました。この急激な感情の移り変わりに付いていけない私の背中にクロエさんは腕を回すと、そのままお腹の辺りに抱きついて声を押し殺して泣きはじめました。ベッドに腰掛けた状態でどうして良いか分からず、手持ち無沙汰の両腕で取り敢えずクロエさんの頭を包みました。クロエさんはそのままとにかく泣き続けています。随分長い間そうしていたと思います。温かい涙が服に染み込み冷たくなるほどに。



「夢を、見るんだ。」


泣き止んで、私から離れた後もしばらく鼻を啜って黙っていたクロエさんが口を開きました。私は無言で続きを促します。


「怖い夢だ。夜中になると見てしまう。いつもだ。寝るのが怖いんだ。」


小さくなって膝を抱えるクロエさんはひどく弱々しい見えました。


「不眠の原因はこれだったんですね。」


「そうだ。」


何かの拍子に壊れてしまいそうな危うい声で応えました。それでも、肝心の夢の内容は言いません。言いたくないのでしょう。聞く気もありません。


「辛かったですね。気が付かなくて申し訳ありませんでした。お茶でも淹れましょうか?気分が落ち着くと思いますよ。」


「いや、いい。」


ずびびと大きく鼻を啜りました。段々と声が普段の落ち着きを取り戻してきたようです。


「何か出来ることはありますか?遠慮なく言ってください。」


クロエさんは鼻を啜るだけで応えません。暗闇では表情も読めません。しばらく待っていましたが何も言いませんでした。一人になる時間が欲しいのかもしれません。無言で立ち上がり出口に体を向けると、服の裾を掴まれました。


「待ってくれ。その、」


クロエさんは言いにくそうに口をもごもごとさせています。私は膝を突いて目線を合わせ、言葉が続くのを待ちます。


「寝付くまでで十分なんだが、その、私が寝るまで手を繋いでいてもらえないだろうか。」


表情は見えませんが、声色でこちらが赤面しそうなほどの恥ずかしさが伝わってきました。


「それで、落ち着いて寝られるんですね?」


「ああ。今まではそうだった。無理にとは言わん。別にその気になればきっとどうにかなる。多分。」


声がしりすぼみに小さくなっていきました。確かに、年頃の女の子にとってはこのお願いはとても難しいものがあったでしょう。


「大丈夫です。大したことじゃありません。寝付くまでの間だけですものね。」


はきはきと何事もないかのように応えました。ここで躊躇いが声に出てしまっては、クロエさんはもっと恥ずかしい思いをするでしょう。


「すまん。」


クロエさんは蚊の鳴くような声でそう言うと、顔はすっぽり布団を被って右手だけ布団から出しました。私は椅子を引き寄せて傍に座り、その手を握りました。力仕事に慣れていない柔らかい手です。力加減が分からず、そっと重ねるように手を置くと、クロエさんは存在を確認するようにしっかり握り返してきました。布団を被っているので寝息は聞こえず、ただ暗闇の中で手を握って時間が経つのを待ちました。規則正しい布団の上下と、温かくなってきた手がほんのりと汗ばんできた頃になってもしばらく手を繋いだままにしていました。私は気の早い秋虫の声を聞きながら、暗闇に向かって思考を彷徨わせました。


彼女はここに至るまでに一体何を見てきたのでしょうか。その華奢な体に何を背負っているのでしょうか。なぜ、彼女は。分かりません。私には何も分かりません。ただ、彼女から事情を聞き出すような真似は絶対にしないと心に誓いました。彼女が自分から話すことを望めば、それを一心に聞きます。望まなければ、私は触ることはしません。誰にでも、人には話したくない過去はあります。それでも心の何処かが、聞いてもらいたい、知って欲しい、もっとちゃんと見て欲しいと叫ぶのです。理解されないのではないかと恐れて誰もが口を閉ざします。歩み寄る恐怖は即ち、離れていく恐怖なのかもしれません。私はどうでしょうか。人の過去に触れ得る権利があるのでしょうか。クロエさんに歩み寄ろうとすべきかもしれません。不必要だとも思いますが、知って欲しいとも思いました。クロエさんが単に良い人だと思っている私はこんなにも醜悪でその鎧の中はひどく煤けているという事実は、彼女にとって財産になるかもしれません。いや、負債となるやもしれません。ただ、自分のことを知って欲しいという単なるエゴを恩着せがましく変えているだけなのでしょうか。でも、なぜ?なぜ私は知って欲しいと?分かりません。私は自分のことだって何一つ分からないのです。

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