たらいとぶどう
「シモン。シモン。寝過ぎだぞ。珍しいな。どうしたんだ。」
膝をぽんぽんと叩かれ目を覚ましました。先ほどあったはずの場所には既に太陽はなく、昼の盛りを終えた景色はなんだか物憂げです。
「すいませんね。あんまりに気持ちが良いものですから。」
夜に寝れないクロエさんにとって、昼寝は大切なルーチンワークです。それゆえ、なかなか起きてこないので私が起こされることはこれが初めてです。
「で、何をすれば良いんだ?」
クロエさんは既にショートパンツに着替えていました。デニム生地から伸びる細く白い脚は本当にジェシカさんそっくりです。このショートパンツを見る度に後ろから蹴り上げられたお尻の痛みを...まぁ、今回は言わないでおきます。まだ起きない頭をもたげて、大きなたらいを納屋から運んできました。もちろん洗ってあります。
「ここにぶどうを入れます。そのあと、クロエさんに裸足になってもらいぶどうを踏んでもらいます。じゃなくてクロエに。」
脛が痛いです。
「なんでそんなことするんだ?」
「搾り場が無いですからね。こういう古臭いやり方でぶどうを搾るんです。さぁさぁ、ぶどうの用意はしますから足を洗ってきて下さい。」
クロエさんには別の桶に水を張り足を洗ってもらっている間に、たらいに一杯のぶどうを詰め込みます。房ごと入っているので結構かさばります。
「じゃあ、踏むぞ。なんだか食べ物を踏むというのは背徳感があるな。やはり、食べ物を粗末にしてはいけないという精神が深く根ざしているからだな。」
「早くタライに足を入れて下さいよ。」
「分かったよ。....うお、なんだこの感触は、踏むとぶどうが破裂して果汁が溢れ出す感覚がなんとも...」
「上にある吊革を持ってやると楽ですよ。」
これは農家さんから教えてもらった知恵です。手作りですが、壊れないように角材を二本建ててその上に梁を渡して、吊革を付けました。クロエさんの体重ならぶら下がっても千切れることは無いでしょう。
「足の指の間に皮がひっついてなんとも気持ち悪い...鳥肌がたってきた。おまえ、これがやりたく無いから押し付けたな?」
「さぁさぁ、まだまだありますよ。早くしないと日が暮れます。」
ヌチャヌチャとぶどうを踏む音が辺りに響きます。クロエさんは慣れてきたのか悪態を付かなくなりました。その代わりにクロエさんのふくらはぎから太ももにかけて、飛び散ったぶどうの皮でにみるみる赤色に染められて鮮血を浴びたようです。
「ショートパンツを、履いてこいとは、こういうこと、だったんだな。」
少しづつ息が切れてきました。見た目より案外ハードな作業なのです。
「折角の服が汚れたら嫌でしょう?それにスカートの裾が着いてしまうのは衛生的じゃありませんから。」
「てっきり、お前の....まぁいいや。しかし跳ぶなぁ。ショートパンツにぶどうが付いて無いか?」
「ついてますね。良いじゃないですか。洗えば。被害を最小限に抑えるにはこれが一番ですよ。」
クロエさんが思い切りぶどうを踏むと、私の顔と服に数粒の潰れたぶどうがべチャリと付着しました。頬に付いたぶどうを食べてみると酸味が夏の初々しさを濃縮しているようでした。
「すまんな。でもまぁ、良いんじゃないか?洗えばさ?」
クロエさんがにやにやと笑いながら私の口調を真似してきました。なんで人から真似されるとこんなにイラっとするのでしょう。そんなに私の声は高くないと思います。
「構いませんよ。なんとも思ってないです。さぁ!どんどん新しいぶどうを追加しますよ!もっと早く踏まないと日が暮れますからね!」
「お前!まだ、最初のが、うおーやってやる!」
クロエさんが激しく足で踏み始めました。私は近くで溢れないギリギリまでぶどうを追加していくので、クロエさんが激しく踏んだぶどうが顔と言わずそこらじゅうに飛び散ります。結局、樽一つ分と少しのぶどうが搾れました。残されたのはクタクタに疲れた、上半身が果汁まみれの男と脚全体にぶどうを飛び散らせた少女でした。なんか痒い。
「おい、シモン。風呂に入ってもぶどうの匂いがとれないぞ。」
「心配しなくても良い匂いですよ。だからそんなに足の匂いを嗅がないで下さいよ。女の子がはしたない。」
「良い匂いか?もう分からなくなってきた。メシ・タルト崩壊というやつだな。」
「まぁ、美味しそう。」
クロエさんは寛いだ様子でソファーに寝転がり、夕食が出てくるのを待っています。最初の頃は食器を運んだりしてくれたのですが、最近は家に戻るとキノコのようにソファーに張り付いています。それでもって夕食はまだか、と催促するのでやるせません。
「光にかざすと、足の爪までぶどうが入ってしまったのが見えるな。」
器用に射し込む西陽に向かって足の指をグーパーと開いています。よくそんなに開くものだぁ、と感心してしまいます。
「分かりましたから、食器を運んで下さい。もうできますよ。」
「ういー」
気怠そうに椅子を運び、食器棚の一番上にある大皿を下ろすのを見て少し嬉しくなりました。というのも、私が大きな一匹の魚でアクアパッツァを作っているのが見えたのでしょう。何も言わないうちに分かってくれているというのは、見ていないようでしっかり周りが見えている証拠です。私に甘え切っていると思っていましたが、そんなことも無いのかもしれません。
「シモン。届かん。やってくれ。」
「分かりましたよ。」
これぐらいなら妥協点でしょう。
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