コスモスと腕ひしぎ十字固め

夢を見ました。私は足枷を着けられて、遠くに行けないのです。目一杯に鎖が伸びたところで座っていると突然に鎖が千切れて私はつんのめって前に転びました。何が起きたか分からずに呆然としていましたが、鎖が切れて自由になったという実感が徐々にやってきました。枷の着いた状態では行けなかった所に行こうと顔を上げ、歩いて花壇のコスモスを一輪手折るとたちまちにそれは枯れました。他のものも同様です。枷がついていたときはあんなにも魅力的だった景色は手が届くと同時に色を失うのです。なんだ。こんなものか。私は蹲って、地面に絵を描き始めました。足枷から少し離れた場所で、今までのように。


起きると汗でびっしょりと濡れていました。こんなに暑いのに掛け布団をしっかり首まで掛けていたのです。なんとも不思議な夢でした。こんなに鮮明に覚えている夢は久しぶりです。こめかみの辺りの鈍い痛みから推察するに呑み過ぎたようです。喉の渇きを覚えたので階下に下りてグラスに水差しから水を注ぎました。暗いので少し溢れてしまいましたが、手近にあった台拭きで吸い取ります。あ、これ、ジェシカさんのスカートだ。水ですし、良いでしょう。こんな所に脱ぎ散らかしてあるのも悪いのです。慎重に元あった位置に戻します。

しかし、ジェシカさんがスカートを履くようになったというのは感慨深いものがあります。昔は衣服に無頓着で、短く切った髪も相まって男の子のようでした。今はそれなりにおしゃれもして、髪もなんとかマーリーという髪型に凝っているようですし安心しました。後は化粧を面倒臭がらなければ完璧です。すっぴんのままでいけるのは若いうちだけですから。癒えない喉の渇きに二杯目の水を飲み干すと、どこからともなくため息が聞こえました。気配を感じて周りを見渡すと通りに面したウッドデッキの所に長い髪をした女が窓に張り付きながらこちらを睨んでいたのです。ぎょっとしてグラスを落としそうになりましたが、左手でキャッチしました。怖いですが、相手は動かないので目を凝らして見るとどうやら幽霊ではなさそうです。窓に張り付いているのではなく外の窓際の椅子に座っていて、こちらを睨んでるわけではなくこっちに背中を向けています。というか、クロエさんでした。

また、眠れないのでしょうか。よほど慢性的な不眠症なのでしょう。私に言わせれば半日も畑で鍬を振るえば夜には否が応でも寝てしまうものです。きっと、その言い分も私が健康体だからという理由でばっさり切り捨てられてしまでしょうが。事実、3分もあればどこでも寝れるので、不眠症の方の辛さはあまり理解出来無いのです。ようやく心臓の動悸が治まったので、ウッドデッキに出てクロエさんに声を掛けました。扉が開いたのに気付いて、座ったまま頭を斜め後ろに反らせた状態でこちらを見ました。長い髪がはらりと垂れます。


「なんだ。シモンか。」


「大変ですね。また眠れないのですか。」


「まあな。」


クロエさんが着ている寝間着は昔ジェシカさんが着ていたものでした。懐かしさと同時に腕ひしぎ十字固めの痛みが蘇ってきて、顔をしかめました。確か、ギブアップしても技をやめて貰えなくて痛みのあまり失禁したことがありました。あっちが悪いのにジェシカさんは怒って口を利いてくれないので後日に謝ったのです。あ、違うな。4の字固めだ。4の字固めの最中に失禁したんでした。そうでした。思い出しました。技の最中にそれに気付いたジェシカさんが抜け出そうともがいたら裏返って逆4の字固めが決まってしまい、ジェシカさんが痛みのあまりに泣き始めたのです。親方が気付いて助けてくれたときは、泣きじゃくる私とジェシカさんがおしっこまみれという混沌とした状況でした。ジェシカさんが親方に叱られるのは分かりますが、私は父親に叱られたのです。生まれて最大の理不尽な出来事でした。


「どうした。怖い顔して。」


「いえ、その寝間着はあんまり好きじゃないなと思っただけです。」


クロエさんが不思議そうな顔をします。


「そうか?かわいいじゃないか。少し小さいけど。」


「昔のトラウマを思い出すんですよ。言わないですけどね。」


釘を刺しておきました。


「ジェシカ達とは昔からの付き合いなのだな。」


「ええ。小さい頃から家族ぐるみの付き合いでした。男の子がいませんから、特に親方が私のことを可愛がってくれました。」


「そうか。ジェシカも家族みたいなもんだ、と言っていたよ。」


まだ、そんなことを言ってくれるとは。申し訳ない気持ちになります。私が黙ったのを見てクロエさんが何か問いたげに口を開きましたが、言葉にならないうちに諦めたようです。


「星が綺麗ですね。」


「そうだな。」


私は椅子を寄せて隣に腰を下ろしました。


「なぁ、シモン。なんで皆こんなに良くしてくれるんだ?」


クロエさんが星を眺めたまま呟くように言いました。


「さぁ。そういう人たちなんですよ。」


多分、それが答えです。


「でも、クロエさんに谷に下りて欲しくないと思っているのは確かですよ。」


流れ星が視界の端で消えていきました。


「おまえも、そうなのか?」


私の表情をじっと伺う視線を感じました。それに気付かないふりをして星を眺めます。


「私は、クロエさんが選んだことを尊重するだけですよ。今までも。これからも。」


「ふうん。」


しばらく鋭い視線を感じていましたが、私の表情に変化がないので諦めたようです。


「親方達もそうです。クロエさんが望むのならその選択を尊重してくれます。それにここは住むにはとても良い所ですよ。皆さん親切ですし、他の都市と比べてもずっと治安もいい。心配するようなことは何一つありません。春までで良いですからここに留まっては如何です?」


「そうかも...知れんな。」


まだ、何か迷っているようです。


「ジェシカさんが苦手ですか?」


「いや、そんなことはない。優しいし、可愛いし、面白い。あんな姉が欲しいかった。」


少なくともクロエさんにはそうですね。他の方にはあれですけど。


「急かすわけではないですけど、決めるなら急いだ方が良いですよ。ここは交通の便が良いわけではないので他の都市に行くならすぐにでも出発しないと野宿が大変になります。」


もし、今すぐに谷に下りると言えば力づくでも止めますが。


「そうだなぁ。」


クロエさんは言葉を濁し、そのまま黙って星を眺め始めたので私もそれに倣います。私は星座に明るくありませんが星を眺めるのは好きです。瞬く星を繋いで自分で勝手に星座を作るのです。あれとあれを繋げば牛に見えますし、反対側の星を使えばパンツになります。幾つもくだらない星座を作っているうちにだんだん瞼が下りてきました。牛にパンツを履かせるとしたらどこまで作れば良いのでしょう。後脚だけか、前脚も含むのか。そもそもパンツの役割ってなんでしょう。股間を隠すためならズボンだけでも良い気がします。でも、ズボンとの違いをつけるためには、それよりも角に引っかからないように雌牛だけに


「シモン。」


クロエさんの声で現実に引き戻されました。ええと、何を考えていたんでしたっけ。


「なんですか。」


クロエさんは星を眺めながらなんでも無いような調子で言葉を続けます。


「あれだ。お前の所はダメなのか。」


何の話でしょう。土の話でしょうか?普通の山土なので手を加えれば良い土になり得ます。


「何がですか?」


「だから!」


本当に何の話か分からないのでクロエさんの方に向き直ると、彼女は苛々した表情で私の顔を真正面に捉えました。その苛立ちは何かを隠すための覆いのようです。


「お前のところで冬越えしてはいけないのか、と聞いている!」


ああ、そういうことか。え、でも、何で?お酒が残っている頭では答えが出そうにありません。


「いや、無理にとは言わんが。それならジェシカのうちで...」


私が困惑しているのを見て消え入りそうな声で付け加えます。私の返事を待つ彼女は不安げな、今までになく無防備な感情が表層まで現れています。何がここまで真剣にさせるのか。とにかく意味が分からず、何の脚色もない事実を伝えました。


「ええと、別に構いませんよ。うちで良ければ。ここと比べれば不便ですけど。」


一瞬、クロエさんの顔が混じり気の無い笑顔で明るくなりました。私はいつも纏っている鎧の下の剥き出しの心を垣間見てしまったようで思わず目を背けました。


「そうか。まぁ、我慢するよ。」


クロエさんは努めて真顔を保っていますが口元が綻んでいます。


「でも、何故ですか?」


つい聞かなくても良い疑問が口をついて出てきてしまいました。


「それはだな。あれだ。あそこには畑もあるし、何より牛の世話をしなくちゃならんからな。」


しどろもどろですが、私も農耕に憧れていたのでその気持ちはなんとなく分かります。


「私も助かります。一人だとどうにも大変で。」


「そうだろう。そうだろう。」


何はともあれ、明日の朝にでも親方達に話をつけようと思います。不足しているものも諸々買わなくてはいけません。いも焼酎買えるかな。私が予定を組みた立てているとクロエさんが聞こえないような声でぽつりと呟きました。


「ここは居心地が良過ぎるからな。」


私は既視感を覚えました。全く私とは状況が違いますが、それでもクロエさんの気持ちは身震いするほどに共感できます。晴れ晴れとした表情で夜空を眺めるこの少女になんとも言えぬ庇護欲を掻き立てられたのはそのせいでしょうか。分かりません。私は、自分のことだって何一つ分からないのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る