靴とビール

役所の生け垣に腰掛け、俯いて足をぶらぶらと揺らしているクロエさんを見つけました。この圧倒的に不利な局面を乗り切る、洗練された大人の流儀というものお見せする機会がやってまいりました。大丈夫。私なら乗り切れます。クロエさんが気付く前にするりと側に寄り、顔を上げた瞬間が勝負です。...今だ!


「すみません。本当にすいません。申し訳ないです。言い訳の余地もありません。クロエさんとの約束をすっかりと忘れて談笑しておりました。何卒、お許しを!お望みでしたら靴舐めます!」


大人の土下座に意表を突かれたのか、クロエさんは暫く呆気に取られていましたが、すぐに私を睨みつけ、怒気を抑えた口調で訊ねてきました。


「では、聞くが、この2時間ばかり私のことを全く思い出しもしなかったか?お前にとってはわたしは用事のついでで、帰郷の嬉しさの前ではただ仕事の厄介事でしか無かったのか?見知らぬ街で置いていかれたわたしの気持ちを考えもしなかったか?」


土下座から顔だけを上げますと、ぎゅうと握られたこぶしが力が入って白くなっているのが見えました。ふと私は置き去りされたのではないかと、心配になって居ても立っても居られなくなった子供の頃のことを思い出しました。父はすぐに戻ると言ったのに、その考えが頭を過ると泣き出しそうな心地がしたものです。予告どおりに帰ってきた父に抱きつくと


「どうしたんだ?」


と父は笑いながら頭を撫でました。クロエさんは不安ながらも私を信用して街に来たというのに、どれだけ待っても迎えに来ないのは私に騙されたのではないか、見知らぬ街でどうすれば良いのだろうと途方にくれていたに違いありません。それでも、約束の時間をとうに過ぎても待っていてくれたのは私を信用していたというよりはそれ以外に選択肢が無かったからでしょう。私は彼女が抱いていた少しばかりの信用を踏みにじったのです。本当に申し訳ないことをしました。


「返す言葉もございません。本当に申し訳ない。ですが、この街の門をくぐって以来、クロエさんのことを忘れたことはありません。事実、クロエさんのお召し物を調達できるように手配して来た次第でございます。どうかお許しを!」


もう一度地面に頭を擦り付けた後に長い沈黙がありました。もしかして靴を舐めるのを待っているのでしょうか。もうこの際、尊厳が云々と考えている場合じゃありません。私がクロエさんの足をがしりと掴んだ瞬間にクロエさんが怒りを逃がすように長い長いため息をつきました。


「もういい。結局迎えに来てくれたのだし。それにわたしのために動いていたのならこの怒りは筋違いだ。本当はお礼を言って然るべきなのだろうが、そこまで大人にはなれん。」


「クロエさん...」


こんなに寛大な大人の対応ができるとは思いませんでした。感動して、なぜか少し涙腺が緩みました。年でしょうか。


「ところで、なぜ足を掴んだ?」


「えっと、靴を舐めようかと。」


「気持ち悪いぞ。お前。」

             

               ◆


「えー!かわいーじゃーん!ねぇねぇ、名前なんだっけ?うちはジェシカね!」


「こんなぼっさい男物着せられて可哀想に。早く、ジェシカの部屋で合う服探しましょう。」


親方の家に連れて行くと、きゃいきゃいと騒ぐジェシカさんと奥さんに押されたのか、いつものでかい態度はなりを潜め借りてきた猫のように従順で静かです。照れているのでしょうか。半ば連行されるようにジェシカさんの部屋に上がっていきました。その目まぐるしい動きはまるで嵐です。


「張り切ってんなぁ、おっかあ。ジェシカも。」


「女性って不思議ですね。」


親方は早くもビールをグラスに注いでいます。真昼間ですよ?


「でも、思ったより幼いなぁ。あの子も谷に行こうとしてんのか。」


親方のつまみの枝豆を私も頂きます。お、これは茶豆です。


「私もこういったケースは初めてです。どうにか止めたいのですが、なにぶん年頃なので扱いが難しくて。」


「そうだなぁ。うちのジェシカはばりばりの反抗期の頃は俺と殴り合ってたからな。分かるぜ。その気持ち。」


同情の眼差しは嬉しいですが、ジェシカさんの例は特殊だと思います。男じゃないんだから。たまに親方の顔に痣があったのはそういうことだったんですね。


「お前はあったっけ?反抗期?」


「いえ、うちは反抗できるような余裕ありませんでしたから。」


親方が私のグラスに注いでくれました。


「そうだな。俺にも甘えて来なかったもんな。いいんだぞ?今、甘えても。」


一口飲みましたが、やはりこの苦さは好きになれません。


「じゃあ、あの隠してあるワイン下さいよ。」


「あれはジェシカと同い年のワインなんだ。あいつが嫁入りするとなったらもたせるんだよ。そんなに欲しけりゃジェシカを貰ってくれよ。」


「じゃあいらないです。」


「おまえなっ!」


がははと親方が笑いました。今度は私が親方のグラスにビールを注ぎます。


「そういえばこの前言ってたお誘いですが、断らせて頂きます。」


「ふうん。どうしてだ。」


親方の目が見定めるように細くなります。


「アロンソさんに言われました。お前は他人の過去を慰みものにしていると。確かにそうかなと思いました。父のことを思い出させる全ての物を遠ざけて、人の不幸で自分を元気付け、それでいて人を助けているという自己効果感に酔っていたのかもしれません。あのときから私はただ飯を食らう肉でした。親方が心配していた通りです。でも、この仕事の見方が最近は少しづつ変わってきました。私はクロエさんを見て言いようもない使命感を感じました。きっと、あの危なっかしい見ていられそうにない感じが自分と重なったのでしょう。勝手な話ですがあの子の行く末を見守ることが自分にとって、とても大切な気がしてなりません。それでも飽くまで自分のため、ですが。」


「そうか。」


親方はグラスに目を落とします。


「お前は立派にやってきたよ。今も。これまでも。十分すぎるくらいな。お前ももう立派な大人だな。俺が世話を焼くようなことは何にもねぇ。お前のおかげでアロンソは死なずに済んだんだ。誇ればいい。あの子も、死なせるようなことがあっちゃならねぇぞ。助けて欲しいことがあったらちゃんと俺に言え。もっと頼っていいんだよ。お前が一人で抱え込むから余計心配になる。俺や、かあちゃんや、ジェシカだってお前のことを家族同然に思ってんだからさ。」


「恐縮です。」


「相変わらず固てぇな。お前は。」


がははと、今日一番の声で親方は笑いました。

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