モップとハンチング帽
「眠いならお部屋で寝た方が良いですよ。」
「うん。分かっている。」
「後の作業は一人で十分ですから。」
「うん。」
昼食を食べて眠くなったのかクロエさんは机に突っ伏しています。長い亜麻色の髪が机の上に放射上に広がってなんだかモップみたいです。
「クロエさん?」
「うん。」
「聞いてますか?」
「うん。」
返事が怪しくなってきました。このままだとここで寝てしまうので手を引いて部屋のまで連れて行きます。クロエさんは相当に眠いようで、半ば寝ています。
「ちゃんとベッドで寝て下さいね。」
「うん。」
扉を閉めるとがちゃりと鍵が掛かる音がしました。その辺はしっかりしているようです。
「さてと。」
作業を再開しましょう。潰してペースト状になったトマトをザルで濾します。種が入ると食感が悪くなるからです。日持ちもしないような気がします。それを鍋で火にかけて、ことこと水分を飛します。水分が飛ぶまで時間がかかるのでトマトの香りのする湯気を見ながらぼんやりと今後のことを考えます。クロエさんの様子だと恐らく街で働いて装備が整い次第、谷を下りるつもりでしょう。仕事が見つかるかどうかは心配ないにしても、装備を整える資金を短期間に稼げるとは思えません。しっかりとした物を揃えようとなると結構な額が必要です。そうなると当面の生活費も必要になってくるでしょう。ここまでで問題なのは季節です。もう夏の真っ盛りなので、手をこまねいていますと秋になります。そしてすぐに冬になるでしょう。夏が終わるまでが底知れぬ深みに下りるタイムリミットです。陽光の指す時間の短い谷では太陽の軌道が低くなる秋頃から急激に寒くなり、谷を抜ける冷たい季節風が容赦無く体温を奪います。加えて、どれくらいの行程になるか分からないこの旅で冬の到来というのは脅威です。冬になれば谷には深い雪が降り積もり、歩くことすらままならなくなります。当然、食料の調達も不可能になるのです。一番出発に良いのは春の中頃、或いは初夏でしょう。そうなると、出発は来年ということになります。この話を聞いて納得してくれるでしょうか。今は小康状態ですがまた、感情を爆発させるかもしれません。意地になって谷を下りようとすることだけは避けねばなりません。今は不安定な彼女にこの話をするタイミングを伺っています。この二日間観察していて分かったことは彼女がかなり緊張した環境に置かれていただろうと言うことです。それだけのことを見てきたのか、身近だったのか、それとも身をもって体験してきたのか。睡眠と食事、衣食住の整った空間にいれば自然と穏やかになっていくでしょう。そのときが来れば話そうと思います。もちろん、説得して断念してもらえればそれが一番良いのですが、まず彼女に必要なのは時間でしょう。そして目標を断念してもよいと思えるような環境作り、つまり生活の基盤を据えることです。私はまだ若い、幼いとも言えるような年齢の彼女に谷に下りて欲しくはないのです。ふと、異臭がして鍋を見ると、いつの間にか、へらでかき混ぜていた手が止まってトマトソースが焦げ付いていました。うわぁ、1籠分無駄にしてしまった。クロエさんにばれないように捨てておきましょう。しかし、すごい雨です。明日は晴れるでしょうか。
昨日の雨が嘘のように空は澄み渡り、恐ろしいほどの猛烈な蒸し暑さで目が覚めました。
「クロエさん、今日は街に行きますよ。起きてください。」
呼び掛けに応じるように部屋から出てきたクロエさんは目をしょぼしょぼさせて、とても眠そうです。
「また眠れなかったんですか?」
「うん。ちょっとな。」
不眠症でしょうか。だとしたら気の毒なことです。朝食を済ませた後、顔を洗って多少しゃっきりとしたクロエさんが物憂げにグラスの水を見つめていました。どうかしましたか、と言って欲しそうな雰囲気です。言いませんけど。
「なぁ、その都市は割と大きいんだよな。」
痺れを切らしたクロエさんがちょっと苛立たしげに聞いてきました。
「そうですね。ここいらでは一番です。」
「ということは私と同じくらいの年回りの女もいるのだよな?」
「そりゃ、いると思いますよ。それがどうかしましたか?」
その言葉を聞いた途端にこの世の終わりだといった表情になり、ギョッとしました。
「私はぼろ切れみたいな服と、貸してもらっている男物の服しか持ってない。これじゃあ、さすがに街には出られん.....」
はぁ、なるほど。これぐらいの年だと同年代の同性の目が気になるのでしょう。私にもそんな時期があった気がします。特にクロエさんは女の子ですしね。あと、40年もすれば全く気にならなくなるんでしょうけど。とは言っても私の家に小柄なクロエさんが着られるような女物の服なんてありません。持ってたら変態です。男はみんな変態だ、という言葉には賛成ですがそれとこれでは話が違います。というか、私が持っている服でさえ、数えるほどしかありません。どうしたものでしょうか。ふと、クロエさんの頭を手で隠してみました。これならいけそうです。
「じゃあ、少年ってことでいきましょう。」
「どういうことだ?」
「ハンチング帽の中に髪の毛を隠せば、ほら、完璧です。姿見で見てみてください。」
とてとてと部屋に入り、
「おお、これなら、いいか。」
と納得してくれたようです。
「とりあえずは私の貸した服で行きましょう。街に行けばクロエさんが着られるような服に心あたりがあるのでそれまでの辛抱です。」
「それはありがたい。いつまでもこんな服でいたくはないからな。」
ハンチング帽の位置が気になるのか何度も被り直しています。
「本当に少年に見えるか?」
クロエさんがくるりと体を一回転させます。
「完璧ですよ。分かりっこありません。」
「いや、でも、身体つきとかあるだろう。」
「大丈夫です。本当にわからないですって。」
「そうか。」
そう言うとにっこり笑いました。なんだか笑顔が怖いです。
「じゃあ、街に行こうか。案内してくれ。」
と言いながらしっかり私の足を踵で踏んでいきました。1ぐりぐりぐらいしたと思います。
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