風呂と東文字

「着替えは...そりゃないですよね。これとこれお貸ししますね。私のですけどベルトで締めれば履けるでしょう。お風呂は熱めに沸かしておいたので自分で水入れて調整して下さい。タオルは洗面所にあります。鍵は両方とも閉めて下さいね。なんならつっかえ棒もお貸ししますよ。二本くらい使います?いらないですか。わかりました。はい、ではごゆっくり。」


がちりと洗面所の扉に鍵がかけられます。はぁ、なんとも疲れました。寝不足もありますが、ヒステリックな叫び声は精神を削られますね。カモミールティーでも飲みましょう。お茶を飲んで一息つくと、朝焼けが部屋を赤く染めていました。やはり静かな空間こそ私の居るべき場所です。触発されて興奮気味の頭の温度が冷めていきます。それにしてもあの娘の情緒不安定さはなんでしょうか。一体何を見てきたらああなるのでしょう。大都市の孤児が溢れる通りに行ったときに見た子供達の目はひどく大人びていて荒漠とした冷たさがありました。少なくとも彼らは静かでした。いろんなものを押し殺した静かさですが。正直、考えても分かりません。考えても分からないことを考えるのは時間の無駄です。短い時間でしたが、自分が子供が苦手だということを思い知らされました。年齢的には立派な女性ですが、どうしても扱い方が子供相手になってしまいます。どうしたものでしょうか。説得したら諦めてくれるでしょうか。論破したら逆上してナイフで刺されないでしょうか。嫌だなぁ。とりあえず、牛の世話でもして貰おうかな。ガコン、と洗面所の扉が開き白い頬を上気させてクロエさんが出てきました。


「湯加減は如何でしたか。」


「うん、いい湯だった。」


「それは良かったです。」


さっきよりかなり落ち着いている様子で安心しました。またなんか叫び出すのではないかと内心びくびくしていました。


「よろしければ、色々とお聞きしたいこともありますのでそちらにどうぞ。」


「ああ。」


腕組みをして足も組んで、聞きたいことがあるんだろう。早うせい。と言った視線を投げかけてきます。気が大きいですね。


「クロエ・アーカナムさんで間違いないですね。お年は?」


「数えで15。満年齢で14だ。」


「ご出身は?」


「黙秘する」


あなたは政治犯か何かですか、という言葉を飲み込みます。大人ですから。


「では、率直に聞きます。なぜ底知れぬ深みへ?」


「・・・・」


答えません。黙秘でしょうか。でも、何か迷っている風ではあります。言いづらい事情を頭の中で整理してい


「黙秘する。」


黙秘でした。今のところ年齢しか分かっていません。


「結構です。とりあえず、今のところの谷に下りる可否を申し上げますと、もちろん否です。ご自身でも分かっておられると思いますが。谷に下りる装備を揃えるのにもお金が必要です。現金の持ち合わせは?」


「これだけだ。」


擦り切れた銅貨を3枚机の上におきました。多分、山鳩2匹分くらいなら買えるでしょう。


「そうですか。お金を工面する方法は何かありますか?」


「皆目見当もつかないな。巾着切りくらいか。若しくは君が貸してくれないか。絶対返すよ。」


さっきからこの方、チンピラみたいなことを言いますね。


「はぁー。そうですか。どうしたものか。」


「絶対返すって」


「ちょっと今考えてるんで静かにしてください。」


取り敢えず市長に相談した方が、いや、待てよ。


「クロエさん、あなた、糸を紡いだことは?」


「ない」


「機を織ったことは?」


「私は鶴じゃないぞ。」


「蚕を育てたことは」


「蚕?」


これは当たりでしょうか。


「蚕が何かも知らん。」


心が折れそうです。


「じゃあ、何か、仕事に使えそうな特技はないんですか。このままじゃ」


このままじゃ娼館ぐらいしか、という言葉をぐっと引っ込めます。それはあまりにデリカシーのない発言です。傷付くでしょう。


「すまない。分からない。」


申し訳なさそうに下を向いてもじもじしています。


「何か、ないですかね。はぁ。字とか書ければ色々あるんですが。」


「読み書きならできるぞ。」


ん?まさか、本当でしょうか、


「山地の女文字とかじゃないですよ。こういう」


紙を引き寄せて私の名前の士紋という字を書きました。相変わらずヘッタクソですが。


「東文字ですよ。公文書とかの。」


「東文字と言うのかは知らんが、それなら書けるぞ。ほら。」


クロエさんは困惑した顔でさらさらとペンを走らせました。小さいですが美しく整った、腹切、という文字が生まれました。なんで腹切?


「ええと、それなら、多分どうにかなります。街の役場とかで仕事があります。」


「ほ、本当か?」


ぱあっと顔が明るくなります。


「条件の良い仕事に就けると思いますよ。」


「そうか!それなら良かった。」


安堵の表情は少女らしい可愛らしさが溢れていました。ここに来て初めて見せた明るい表情です。


「しかしお前、字、ヘッタクソだな。」


私は引き攣った笑顔で応じました。大人ですから。


「街に行くのは2日後です。それまではこちらに滞在なさって下さい。お仕事が見つかったらお好きにどうぞ。」


「すぐにわたしは行きたいぞ。」


「今は月末で忙しいので取り合ってくれないでしょう。私も定期報告で街に行きます。道も分からないでしょうからそのときに一緒に。」


それよりも一人称がクロエさんも、わたし、であることに気付きました。なんか嫌です。


「クロエさん」


「なんだ」


「一人称、妾とか、あたいとかになりませんか?若しくはクロエでも。あっ、僕でも良いですね。どうです?」


「お前、気持ち悪いぞ。」


確かに、何言ってるんでしょう。じゃあ、私が変えた方が良いでしょうか。あっ、それよりも畑仕事をやらなくては。


「クロエさん。こちらに宿泊する費用は公費で賄いますが、一人分しっかり養うとなると少し足りません。こちらに宿泊する方のルールとしてクロエさんには畑仕事などを手伝ってもらいます。良いですね?」


少し嫌そうな顔をしましたが


「分かった。そういうことなら。」


やってくれるそうです。

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