狼と木刀
谷から戻る道中はだんだんと話し声が大きくなり、谷の入り口に着く頃にはがはがはと親方が笑っていました。自然解散のようだったので私とアロンソさんは家に戻りました。アロンソさんは考え込むように俯き、終始静かでした。
「アロンソさん。」
「なんだ?」
ウッドデッキで寝転んでいたアロンソさんは首を傾けてこちらを向きました。
「少しお話出来ますか。」
「なんだよ。改まって。気持ち悪りいな。」
私がウッドデッキに上がる階段に腰を掛けると、アロンソさんも起き上がってあぐらをかいて話を聞く姿勢になりました。
「ここは冬になると、山の食べ物が不足するからか鹿が野菜を荒らしに来るんですよ。」
「ほお、それは難儀だな。」
「ええ。でも、狼も鹿を襲うためにうろつくようになるので、実際そんなに被害は無いんです。でも、野菜が荒らされるより狼が来ない方がましですけどね。一匹でも恐ろしいですよ。一度、牛を狙いに来た狼がいたんです。牛小屋の回りをうろついていたのでこれはいけないと思いまして、剣を持って牛小屋の番をしていたんです。」
「そりゃあ寒くて大変だろうな。」
「そうですね。でも、もっと大変だったのは狼の方でした。私が番をしているのを遠くから眺めているんです。ちょうど、あのいちじくの樹の辺りでした。夕になり夜になってもまだいるんですよ。いつになったら諦めるのかと思いながら毛布を体に巻きつけて耐えていたんです。夜中のいつ頃だったかわかりませんがうつらうつらと船を漕いでいたとき、強い風が吹いて窓を揺らした音で目が覚めたんです。それで、また番を再開したらさっきまでのところに狼がいないんです。諦めて帰ったかと思ったら、私の目と鼻の先の距離まで詰めて来ていたんです。さっきと変わらない姿勢で銅像みたいにこちらを見ているんです。そのとき、気付いたんです。牛だけじゃなくて自分も狙われているのだとね。恐ろしくて震えました。立ち上がるのも恐ろしかったですが、家に戻るためにドアを開けて、背中を向けることなんて絶対出来ませんでした。そのまま震えながら番をしていると、明け方ごろにようやくあきらめて谷に帰って行きました。」
アロンソさんは何を私が言おうとしているのか悟ったのでしょう。何も言わずに私をじっと見ています。
「谷での狼はそんなに甘くありません。群れで狩りをし、生きた人間の腸を引き摺り出します。狼だけじゃありません。屍漁りという大きな鳥は動くものならなんでも襲います。狼ですら食料になり得ます。奥に進むと熊もいれば、毒蛇もいますし、人の皮膚に寄生するハエが卵を産みつけてきます。日によっては谷の底に有毒なガスが充満していることもあるんです。そこまでして行かなければいけないところですか、一体そこに何があるっていうんですか。アロンソさん。」
最後にはつい、口調を強めてしまいました。
「なんで、底知れぬ深みを目指すんですか。ただ、自分の置いてきた現実と向き合いたくないだけではないんですか。」
アロンソさんは拳を握りしめ、私を睨み据えたまま口を開きました。
「人の心にずかずかと土足で上がり込もうとするな。お前に何も言う必要はない。お前に何か聞く資格があるのか。お前は自分のこととなると一切口を閉ざすじゃないか。何も聞かれたくないことがあるんだろ!他の人間の過去を慰みものにしているだけじゃないか!お前は自分から心も開きもしないで人にはそうしろと迫る。ノーリスクで何か出来ると思うな。この農夫崩れが!俺は騎士になるんだ!俺は騎士になるんだ!もうあそこにはもどらねぇ!」
語気を荒げて、立ち上がり肩で息をしています。
「騎士、ですか。そうですか。なら、お手並み拝見致しましょう。」
私は納屋の中からくたびれた二本の木刀を出し、一本をアロンソさんの足下に投げました。
「拾ってください。騎士になると言うからには自信があるんでしょう。」
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