伽藍堂とベーコン

夕方頃に家に戻りました。


「ただいま、帰りました。」


声はどうにも伽藍堂に響くような心地で、胸騒ぎを覚えました。


「アロンソさん。」


客間に声を掛けましたが返事がありません。無礼を承知で客間の扉を開けると、もぬけの殻でした。ぞわりと毛が逆立ちます。まさかあんな格好で谷に降りたのでしょうか。食料も装備も不足したまま、谷に挑むのは自殺行為です。私としたことがあまりに迂闊でした。妙な慣れのようなものが慢心させていたのです。意識に付いてくるように心臓が早鐘を打ちます。今ならまだ間に合うでしょうか、あの甲冑を着たままではそう速く動けるとは思えません。ソールの固いブーツに履き替え、糧食を幾らか鞄に詰めます。もし、日が完全に落ちる前に見つからなくても最初の1マイル以内であれば道を覚えているので戻ることができます。幸いにも今日は満月です。夜目は効く方ですが新月での探し人はまず不可能です。しかし、その先に行ったとなればもう無理でしょう。追い付いても、戻るのを嫌がったら力づくで連れ戻します。そしてしっかりとした装備を揃えて再トライしていただきます。もちろん、諦めてくれれば一番いいのですが。ドアを開けようとしてはたと気付きます。あまり持ちたくはありませんが、何があるか分かりません。自室のベッドの下から諸刃の剣を取り出し、鞘を抜きます。手入れが行き届いているので無骨な銀色が夕陽を反射して目に刺さります。何度捨ててしまおうかと思ったことでしょうか。忌々しい刀身を鞘に納め、玄関を出ます。夕陽の感じから、あと2時間が捜索の限界でしょう。もし、見つからなければせめて後日の遺骨拾いで、


「なんだまたどっか行くのか。」


家の裏手のオリーブの樹の辺りで声を掛けられました。アロンソさんは甲冑を着てオリーブの葉を弄くっています。


「なんだって、そんな物騒なもん持ってんだ。」


アロンソさんは眉をしかめます。


「ええと、何をしてらっしゃるんですか」


「みりゃ分かるだろ。蛾の卵の付いた葉っぱを捨ててんだよ。この小さい黒いのな。葉っぱの裏だから気付きにくいけど、こいつら食害するから。それにちゃんと剪定しろよ。枝が混み合い過ぎてんぞ。まあ、もう花ついちゃったから来年だな。」


肩から力が抜けます。安心したら小便がしたくなりました。そしてこの男にローキックをお見舞いしてやりたくなりました。

                   

                  ◆


「なぁ、俺のスープだけ具が少なくないか。」


「気のせいでしょう。」


夕食はオニオンスープとアスパラガスの炒めものです。アロンソさんはオニオンスープ、オニオン抜きです。つまり汁です。


「んで、さっき言い掛けたのってなんだ。」


汁を啜りながらアロンソさんが尋ねます。


「はい。明日、谷に下りるのですがご一緒にいかがですか。」


「どういう風の吹きまわしだ。あんたが谷に下りるのか?」


不審そうな眼差しです。


「はい。明日は谷の遺骨拾いの日なんです。街の行事で3年に一度行うのですがたまたまそれが明日なので誘ってみました。谷に下りるのにも予行練習が必要でしょう。いい機会だと思いますが。」


「そうだな、断る理由も道理もないな。」


炒めもの皿に残ったオリーブオイルにパンを吸わせ、柔らかくな生地を舌に乗せると、アスパラガスとほんの少しのベーコンの香りがします。野菜の中の微かなベーコンのように質素な生活でも幸せは感じられるものです。この方が何を求めて谷に下りようとするのかは分かりません。それでもこの方からは諦観も、虚栄心も、富への執着も、何より明確な理由も無いような気がしてなりません。知識と実感が不足しているために無謀な冒険をしているのだと思いました。谷に下りれば、色濃く漂う死の匂いの中でくっきりと浮かびあがる自らの生に何か感じるでしょう。一度感じた生への執着はいつまでも蛇のように絡みつき、ときに息苦しささえ覚えます。それは私を生活に縛り付け、不自由さえも歓びだと言います。いつだったでしょうか。あれは、いつのことだったのでしょうか。ランプの光が微かに揺れます。

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