街と市長

アロンソさんはノックしても起きてこなかったので朝食を机の上に置いておきました。蠅帳を掛けてこなかったのは昨日の夜に、楽しみに残しておいたウイスキーを空にされた仕返しです。結構、高かったのに。案の定二日酔いで起きてきません。ですがあの様子ではこっそりと一人で谷に向かうこともなさそうです。まあ、元気であっても私を出し抜いてまで谷に向かうような執着があるようには見えませんが。私はまだ辛うじておはようと言える頃に家を出ました。馬でもいれば速いのですが、生憎うちは牛一頭の世話で限界です。それにこの季節の散歩と言うのも心地の良いものです。遮るもの無く吹く風は乾燥していて暖かい陽気の中をどれだけ歩いても汗一つかきませんし、歩きながら食べられそうな山菜を探すのも楽しみです。小高い山の尾根伝いに30分ほど下って行くと日干しレンガで作られたラマンチャの街が見えてきます。一応、城郭都市として北の地方では最も栄えているのですが、往来の少ない土地柄のせいか住人の方は非常に田舎っぽいです。子供達は基本裸足ですし。女の子なんかは思春期になり、服装を気にするような年頃になって始めて靴を履き始めます。それを隣のおばさんが


「あらまぁ、おませさんね」


と嗜めるので顔を真っ赤にして立ち去るなんて光景を見ることがあります。そんな愛らしい街で私は育ちました。普段ならば、買い物がてら旧友のところに顔を出そうかなどとうきうきしておりますが今回ばかりは二つの仕事のことで気が重いのです。今日、この街に来たのは雇い主である市長に活動報告と、谷での遺骨探しの打ち合わせです。まずは市長のところに向かいます。これがまた面倒な男なのです。



「やぁ、やぁ、久し振りだね。僕かい?僕は相変わらず忙しいよ。何てたって市長だからね。忙しいなんてもんじゃない。てんやわんやだよ。だから全然寝てなくてね。ほら、見える?この隈。本当大変だよ。だからだいぶ痩せちゃって。そんなことよりさ、卵のアレ、こないだ女の子口説く時にやってみたのよ。ほら、あれだよ。卵のとんがってる方とその反対をどんだけ強く握っても割れないってやつ。ん?いや、ほら、旅の大道芸人って設定で口説いてたから、しょうがなくね。でね、やってみたのよ。うまくいってその子も、すご~いぱな~い、とか言ってたんだけど途中で手が滑って横向きに握っちゃってさ。その子の髪の毛に黄身がぐっしょりよ。そしたらその子泣いちゃってさ。謝っても泣き止まないし生卵臭いし、急に冷めちゃったね。愛はこうして冷めるのかーと悟ってしまった今日この頃。サラちゃぁん、お茶ぁー」


と言うと、タイプライターを叩いていた女性がすくっと立ち上がり、給湯室に消えて行きました。


「えっと、何の話だっけ。」


「今月分の報告じゃないですか?」


「そうだったそうだった。」


そう言って机の中からマルクさんの書類の写を出しました。文脈からわかる通り、このおしゃべりが市長です。市長のイムラです。東文字だと居村だそうです。器は甚だ小さく、いつも卑屈な笑みを浮かべて格下に威張り散らすこの残念な男が市長になれたのは、ひとえに住人の政治に対する無関心さでしょう。どうしようもない男というのは友人としては面白いのですが、このように責任ある立場に就いてしまうのは少々不安です。きっと、会って早々にマシンガントークを炸裂させたのは、役所の真面目な職員の皆さんが相手にしてくれないからだと踏んでいます。10分ほどふんふんと聞いてやれば落ち着くのですが、その10分に耐えられるかどうかは人によります。うまくやっていけてるのでしょうか。不安は募るばかりです。


「うーん。早速、一人目か。今年は早いね」


イムラはぽりぽりと鉛筆の裏で頭を掻いてその先端の匂いを嗅いでいます。きもいですね。


「もう2人目が来てますよ。」


「うそーん。ペース早いねー。で、1人目の報告をしてもらおうか。」


私はマルクさんの事情を掻い摘んで話しました。実は、私はちょうど仕事を探している時にこの男に雇われたのです。農耕もやれるならと喜んで引き受けてはや4年です。腕を組んで黙って聞いていたイムラは報告が終わると、


「そっかー。」


と言いながら茶菓子を貪っています。


「自分の仕事については分かっているつもりですが、やっぱり事情もありましたし通してしまいました。」


「いや、構わないよ。」


イムラは新しい茶菓子を開けました。


「関所の役割は二つ。覚悟のない奴を通さないこと。それと、もう一つは底知れぬ深みとの間に設けた蓋という役割だ」私は黙って頷きます。何度も聞かされた話です。


「人が暮らしを営むこの街、つまり生の象徴と、死の象徴である底知れぬ深みとの間に簡素であっても自由に出入り出来ない関所が出来たことで、まるで死の象徴を制御下においたような安心感が得られる。ずっとこの街は底知れぬ深みが影を落としてきたからね。意味合いとしては大きいと思うよ。まぁ、飽くまで気分の問題だがね。」それに、と続けます。


「君が通していいと判断したならきっと正しいんだろうよ。」


何食わぬ顔でイムラはそう言いました。こんな風に自然に人を労ったり褒めたりできるのはこの男の数少ない長所です。しょうもない男ですが、意外にも人望はあるのです。


「えっ、これ白湯じゃん」


イムラはサラちゃんと呼ばれた職員が置いていった湯呑みの中身を見て、文句を言っています。


「お茶っ葉切れていたので。」


さらちゃんは目も合わせずに応えます。私は報告が終わったので、次の用件を済ませるためにソファーから立ち上がりました。


「サラちゃん~。これじゃ、白湯どころかぬるま湯だよ~」


という声が閉めたドア越しに聞こえました。やっぱり人望はないのかもしれません。

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