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三縁が意志するだけで、彼女の前後に椅子を形成することはできた。けれども、彼は絶対にこの女に椅子は出さないと話す前から決めていたし、こうして話し始めてからもその決意は変わらなかった。彼女は寒いのか羽織っていたジャケットの袖に腕を通した。
〈君のことを客と思っていないから、出すことはできないな〉
「あ、そう。わたしは、あなたが家に来たら、椅子も出すしお茶も出すつもりだけど」
〈どうやっていくんだよ!〉
音声出力装置が突然の怒声を調整できずノイズを起こした。実際、それは突然だった。三縁自身にとっても。こんなに感情的な声が出るということ、そして大きな声を出すためにはどのような力の加減が必要なのかを彼は今、ようやく、理解した。
高名な学者であり、そして言いたいことが殆ど無限に思いつく相手を前にして、まるで子どものような言葉しか出なかったことに三縁は恥じ入った。恥じ入って、早口になった。
〈どうやって、行くというの。ぼくには身体がないんだ。これが十数年前だったら、重度訪問介護を利用して、行けたかも知れないね。ヘルパーさんにお願いしてさ。蘭堂博士のところに行きたいから、付き添いを頼むねってヘルパーさんに言って、補助金で購入した電動車椅子で移動して……。ぼくには脳性麻痺があったからね、身体の不随意運動で汗だくになりながら、それでも生活保護と障害年金から捻出した自分のお金で、半額の電車賃を払って電車に乗れただろう。それが今はどうだ! 博士、あなたは自分が何をしたかわかっているの? 何を推し進めてきたか。あなたはこの国の公共圏――いや、公共性そのものを全て売り払ってしまった。後には何が残った? 博士、後には何が残りましたか?〉
「わたしは何もしていないわ。わたしは――火に油を注いだだけ」
蘭堂は満面の笑みを浮かべている。あまりにも深いその笑みは、口角を上げるにとどまらず、彼女の両の頬が裂けているかのように三縁に錯覚させた。彼は思わず部屋中のレンズというレンズで彼女の顔の光の反射を集め、観測した。彼は『不思議の国のアリス』の挿絵にあったチェシャ猫の顔を想起した。
〈いかれてる〉
「少し壊れているくらいじゃないと博士号を取るのは難しいのよ、坊や」
〈なにが《坊や》だよ。ふざけてんのかよ〉
「もしかして、『お嬢ちゃん』?」
〈どっちでもいいだろ、そんなことは。多様性の時代なんだぜ。言いたいことは言ったから、上に報告して、ぼくへの栄養剤と冷却液の供給を止めてもらっていいよ〉
「そんなことしないわ。ただ、椅子が欲しいだけ」
三縁は蘭堂が座れるように、床の高低を変化させた。空調すらも彼女の適温となるように変えた。彼女は腰を下ろし、上着を脱いで遠くに放り投げた。まるで戦いの合図だ。脚を組み、顎に指を添えた。ノースリーブのシャツから露出した肩の丸みと光沢に、彼は敗北を確信した。
「ありがとう。三縁をわたしのアシスタントに推薦した人は天才ね」
〈それで、君は何をしたいの?〉
「釜石先生と鳥栖先生をやっつけたいの。あらゆる地位を剥奪して地獄に送りたいの」
頭を金槌で殴られるような衝撃を、三縁は味わった。頭部というものと、痛みというものを思い出した。〈意識の毒〉に彼は吐き気を覚えた。それから彼はこの部屋の映像と音声のログにアクセスできる者を瞬時に調べ上げた。調べ上げて、今一度、金槌で殴られた。そんな者は存在しなかった。この基地の情報システム部門の特権アカウントすら許可を有していない。
〈何故?〉
「わたしの当面の目標が限りなく小さな政府であり、最終的な目標がこの日本列島、そして全世界からの国家を含めたあらゆる法人格の廃止だから。『公共性そのものを売り払った』つもりだったのに、オリンピックのテロと中東での戦争でまた行政府が肥大化している」
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