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身体の記憶があるのかどうか、三縁にはわからなかった。ただ、外の世界への強い関心があることだけはわかっていた。それは全く、否定しようがなかった。むしろ否定しようとすればするほどに、その存在感は強くなった。
「どうだろう? 身体の記憶について、何か思い当たる節は?」
「いえ、なにも。でも、ひとつだけ質問があります」
三縁が言い終えた同時、彼と彼を包むこむ柔らかなものの境界が壊れた。彼と彼が質問をしようとした相手とコケティッシュな声のオーディエンスはいずれも、その崩壊に飲み込まれ、跡形もなくなった。彼は彼等になった。
「これが私だ」
しかし、それも一瞬のことだった。境界が稲妻のように生成され、そして彼等から三縁を引き裂いた。だから彼は今や、柔らかなもののヴェールの向こうに、中年男性の姿を見た。背広を着て、ビジネスバッグを持った男。異様にも見えるほど、普通を追求した姿。相貌を覚えることすら難しい。しかし彼の口から出てくる重厚な声は、三縁の意識の毒を心配していた声と同一だった。
「正確には私の、実現しなかった可能性としての私だ。私は筋ジストロフィーでね。私に身体の記憶はない。それからプライバシーの観念も、ない。物心ついた時には既に母が24時間、私のそばにいる生活だった。だから私はここでの、身体のない生活に満足している。これこそ、人類の未来だと思っている。これこそ、〈身体拡張技術〉の名を持つに相応しい技術であると――」
「ぼくは質問をしてはならないということですか?」
「他人が話している時に遮ってはいけない。話すのが苦手な人だって、いるのだよ。それは絶対に駄目だ。人の話は最後まで聞かなければならない。身体がある時、私が何度、話を遮られたことか。眼球を上下左右に動かすしかない私の『話し方』が、何度、嘲笑されたことか。三縁、君の質問は誰にも妨げられない。その代わり、今後、次のことだけは絶対に守るようにすること。もしも相手が『こんにちは』と言うために一晩使うのであれば、君は一晩、待つこと。いいね?」
「はい。わかりました」
三縁は短く、そう答えた。三縁はこの時、初めて、声の背後にあるはずの意志と意志を機能させている肉体――脳だけだとしても――の存在を感じた。その迫力のために、一瞬、彼と三縁の関係はまるで師弟のように機能した。
一拍の間を置いて、彼は言った。
「では、君の質問を聞かせてくれ」
「ぼくたちが取得する環境情報を検閲しているのは誰ですか?」
「カント哲学の中心概念である〈物自体〉を考えてみてもわかるように、検閲なき生の情報というのは嘘だ」
「ぼくたちが保管されているプールの下には何があるのですか?」
「――どのような情報を取得するのか、これは予めコントロールされている。当然だ。我々のプールの下にあるのが分散コンピューティングのネットワークから〈意識の毒〉に犯されたニューロコンピュータを隔離するためのプールであると知って、それでどうなる?」
「『あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする』」
「三島三縁、〈意識の毒〉は既にかなりの程度、君を犯しつつあるらしい。私は君が我々のネットワークから切り離されることを望まない。私は君を友人だと思っている」
「ありがとう。嬉しいよ」
「だから敢えて、君の厳しい運命を予告しよう。君は仕事をすることで、〈意識の毒〉から逃れなければならない」
「どんな仕事だい?」
「〈三博士〉の依頼だ。高度な情報アクセス権限が付与されることになっている。また、業務中に生成された情報についてアクセス制御を行うことができる」
「君たちに対しても?」
「そうだ。あまりにも怪し気なのでね、依頼の拒否を検討していたが……。まさに君のための仕事だよ、これは」
三縁も〈三博士〉のことはよく知っている。彼がここに、こうして生きていること、そのことがまさに〈三博士〉の産物そのものなのだから。
「3人の、誰だろう――釜石徹……」
釜石は生理学者であり生物学者で、〈身体拡張技術〉の生みの親だった。彼が分子機械〈還相〉を作り、国家予算の獲得競争に勝ったことで三縁のようなニューロコンピュータは〈身体拡張者〉ではなくなり、純粋に軍の資産そのものになった。
「釜石博士ではない」
「鳥栖二郎……」
鳥栖は情報工学者でありデータ分析企業のCEOで、
「鳥栖博士でもない」
「
「そう、蘭堂博士だ。君はこれから彼女のアシスタントになる」
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