3-3-1-1 三島三縁
まずあったのは、柔らかなものに包まれているような感覚。次にあったのは、包まれているのではなく、自分はそれ自体なのだという感覚。そして最後に訪れたのが不安――自分を操作しているという感覚がない。自分は何処までなのだろう。この柔らかなものと、自分との境界は何処に引くことができるのだろう。
「落ち着いて」
コケティッシュな少女の声。
「深呼吸しろ」
低い、厳かな男の声。
「肺がないのに?」
少女のような少年の声。
「彼には、ある。皮膚以外の全てを彼は保持している」
「贅沢なやつだな」
また別の声。とはいえ声だけでは区別が難しい。その声の背後に、発声した誰かを想像することができない。声を出し、空気を震わせた声帯を発想することができない。どうやっても、できない。
「いや、むしろその方が合理的なのだよ。贅沢なのは脳だけで存在が許されている我々だ。人間という完璧なニューロコンピュータのハードウェアは明らかに頭部に限定されない。頭部以外の部分は頭部を運ぶための下僕ではない」
震えているのは空気ではない。自分そのものだ。
「助けて!」
自分そのものだという意識が漠然とした不安を明確な恐怖に変えた。柔らかな物と自分が明確に分離された。境界が形成された。されて、しまった。
「出して! ここから!」
「だ、だ、大丈夫よ。落ち着いて」
少女の吃音に、彼の恐怖はさらに強くなった。そもそも、本当に大丈夫ならばわざわざ大丈夫などと強調する必要もないではないか。
「三島三縁」
重低音域の男の声に名前を呼ばれた。みしまみより。それが彼の名前だった。名前が彼と柔らかな物の分離を、さらに決定的なものにした。
「良い名前だ」
三縁は男の声に集中した。おかげで、少なくとも集中するということができると彼は確認できた。
「三縁ちゃん、まだ苦しい?」
「うん。怖い。ここ、何もない。声しかない。みんな何処にいるの? この柔らかいの何? 気持ち悪いよ」
「柔らかい? 何だろう? もしかして、あたしたちが浸されている冷却液? そんなことってあるのかな。どうしよう、それって、とっても寒いってことよね」
「そんなことはありえない。もしそうだとしたら、彼は死んでいる。恐らく、我々が環境情報からの入力の大部分を遮断していることに由来する、一種の変性意識状態だろう」
「目の不自由な人が鋭敏な聴覚を獲得するような感じ?」
「ああ、同一現象の別側面だ。問題ない。私も相当の時間、それに苦しんだ。自殺することもできないし、この苦しみが永遠に続いたら発狂してしまうと思った。しかし、問題は、ない。時間が全てを解決する。大して続きはしない。ところで、三島三縁、君の名前の由来を調べてみよう」
自分を包む柔らかな物と自分の境界とが再び、曖昧になっていく。柔らかな物そのものに、彼自身がなる。なっていく。自分の外側を意識するのと同時に境界が崩れ、さらに外側が遠ざかっていく。
「ひとつ、コツを教えよう。『システムは何が観察できないかということを観察することができないということを観察することができない』。つまり、我々が観察のために自他の境界を引くとき、その境界を設定する営みそれ自体は観察することができない」
「せんせー、何言っているのか全然わかりませーん」
鈴のような笑いを伴い、誰かが言った。
確かに彼が何を言っているのか三縁にはまったくわからなかった。同時に、彼が何を言っているのか三縁には完璧に理解することもできた。
実際、彼は一瞬で曇鸞の『往生論註』全2巻を読むことができた。本を読むために、本というもの、文字というもの、そして文字の使用のルールである言語体系を知る必要があったにも関わらず。彼はそれらもまた一瞬で、知ることができた。
彼は読むことも聞くこともなく、ただ純粋に、直接に知ることができた。
「『人執を断ぜざる凡夫、衆生有りと謂うが故に起こす慈は是れ生縁なり。人執を断ずる菩薩、法有りと謂うが故に起こす慈は是れ法縁なり。法執を断ずる仏界は法無しと謂うが故に起こすは是れ無縁の慈悲なり』」
「なるほど、やはり仏典から取ったのだね」
男の声もまた、小さく、鈴のような笑いを伴っているように聞こえた。彼は三縁が驚いていることに喜んでいる。良い兆候なのだろう。そして、なるほど、恐怖は薄らいでいた。それよりも強い知的欲求が出てきた。知的? または新しい玩具で遊びたいという、童心。
自分を包んでいた柔らかな物が情報の塊へと生成変化する。彼はそれに触れて、掴んで、味わうことができる。気づいて、彼は彼の境界を確定した。
「これが我々の能力だ。環境情報の取得方法を限定することで、逆に認識能力を拡張することに成功した。ここは確かに牢獄だが、しかし外にいる人々もまた、自分の身体という牢獄に閉じ込められている。何の違いがある?」
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