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言って、再びその顔にチェシャ猫の笑みを貼り付ける。頬が裂けていき、耳の付け根にまで口が拡がっていく光景を四恩は幻視する。彼は〈バーストゾーン〉への移行に伴う、猛烈な離人感の中にあるはずだった。彼女がそうであるように。
「予想はできた。想定の範囲内だ。だから僕は塔を登り――」
奥崎の言葉の途中で四恩は彼の肩口から斜めに剣を振り下ろした。大剣への重力と彼女の腕力との合力は、しかし、彼の肩に触れることもなかった。
「天辺から中性子の雨を降らせることにしよう」
代わりに、彼の絶対守護領域を視覚化した。白い光の絶えざる明滅が彼の周囲、球形に展開していた。
「四宮さん、僕を殺して止めるんだ。捕まえるだなんて、そんな――そんな、言い回しは僕たち戦争機械が使うべきじゃあない」
見えざる手に掴まれた切っ先が停止する。四恩はその手に剣を差し、奥崎から距離を取ろうとする。しかし電流がそれを許さない。鋼鉄の熱伝導効率は高く、彼女の手袋と手の皮膚が既に溶けてグリップに貼り付いている。そしてもう、彼女の筋肉そのものが不可視の手によって操作されている。筋収縮とは電気刺激の産物だった。
ああああああ――。
甲高い悲鳴が聞こえる。四恩がこんなにも高い声を出すことができることに驚いた。離人感が高まっていく。〈還相〉の作動に身を委ねようと思い始める。彼女の生命の延長を彼女よりも優先する極小の論理機械が全てを解決する瞬間を夢想する。
ああああああ――。
「そもそも基礎的な能力に大きな差がある。〈高度身体拡張者〉としての能力がお互いに限りなくゼロに近い瞬間を作ったとして、それが何だと言うの。勝負にならないよ。そうなったら勝敗を決めるのは――」
〈覚悟、かなぁ〉
少女の悲鳴を三縁の水晶のような透明感ある声が四恩の意識から追放した。それは施設内のスピーカーから空気を媒介にして彼女の耳に確かに届いた。
「覚悟だと!?」
奥崎は三縁に特別な感情を抱いているらしい。純白に染め上がりつつある視界の中、奥崎の顔には昔の顔が戻っていた。チェシャ猫の仮面など必要としなかった頃の顔だ。喜びや怒りや悲しみを、廊下ですれ違った四恩に瞬時に伝えるための顔だ。
「覚悟とは何だ!? 言ってみろ、機械! 覚悟とは!?」
〈頭を冷やせよ、奥崎くん。それにね、『人体は自らゼンマイを巻く機械』なんだよ〉
放水開始、という放送はなかった。ただ、放水そのものがあった。三縁は既にこの白亜の塔を完全に掌握していた。巨大な水の塊が吹き抜けの天井から落ちてきて、内部を洗い出した。
方舟が必要だと思うほどの豪雨が降り注ぐ間に、三縁の機械の身体の1つが奥崎と四恩へ近づいてきた。三縁は〈ごめんね〉と言いながら、四恩を半ば殴るようにして奥崎から引き剥がした。感電事故からの正しい対処法に彼女は「ありがと――」と言うしかなかった。
〈機械の身体じゃなかったら、こんなことができる?〉
まだ雨は続いている。だが四恩の身体は濡れることがない。彼女の頭上、無数の傘が雨を弾いていた。多脚戦車から伸びたマニピュレーターが実現する、この上ない加護。
「三縁じゃなかったら――やらない――」
〈そうなんだよ。実に人間的だろう?〉
「うたがったこと、ない、けど」
奥崎がこちらを睨んでいる。
四恩は頭上の傘の1つを手に取る。
「一体どうなっているんだ! 何故ここにいる!」
奥崎の身体もまた、濡れていない。彼に触れるより先に、水が次々と蒸発していく。彼の真っ赤な顔と合わせて、怒りのために全身から排煙しているようにも見えた。
〈君は《還相抑制剤》も、ここから脱出する方法も提供できなくなったのに、まだ誰かを操作できるつもりでいるのかい?〉
「なるほど……」
静かに肩を落とし、奥崎は穏やかな態度を取り戻した。昔の奥崎のようだと、四恩は再び思った。思って、思わず言った。
「奥崎くん、傘、つかう――?」
「ありがとう、四宮さん。大丈夫。必要ない」
「たくさん、持っている――から」
「そのようだね。でも、それは全部、君のために用意されたものだ」
溜息。静寂。三縁すらも、沈黙。
「中性子線をばら撒いて、ここから出ていくことにするよ。僕は闘争領域でしか自由になれない。そういう身体になってしまった。あの砂漠で――」
「奥崎くん」
「あの砂漠で――何度も君のことを呼んだのに。どうして来てくれなかったの。どうして? どうして、こんな風になってから来るの」
「わたしは――」
言いかけて、やめる。何を言っても、いや、言えば言うほどに間違えていく。今はもう奥崎もそのことを理解している。彼はもう何も語らない。紡げなかった言葉未満の感情が彼の目から溢れ出し、顎に集まっていく。四恩の顔もまた、傘の下にいるというのに、頬を濡らす液体の冷たさに身震いした。
「三島三縁。彼女のこと、頼んだよ」
〈君がいなくても、ぼくがいなくても、彼女には何も関係ない〉
今まで聞いたことのない、押し殺した声で三縁は言った。
「そうだった。では、互いに為すべきことを為すことにしよう」
どぅおおおおおおおおおおお――。
塔の最上階が弾けて、煙と熱波と光球となって混ざり合う。豪雨がぴたりと止んだ。そして、すぐに瓦礫が落ちてくる。コンクリートと金属の嵐だ。吹き抜けを囲っていたフェンスが枯れ葉のように舞い踊る。
四恩は破砕物の波浪の中でも静かに立っていることができた。
多脚戦車に装備された機関銃がカメラとレーダーセンサーと赤外線検知器、そしてそれらからの入力を処理する機械学習アルゴリズムによって彼女に到達すると予想された飛来物を彼女の遥か遠方で迎撃していく。
奥崎は破砕物の波浪の中でも静かに立っていることができた。
波は彼に到達するより先に崩れ落ち、彼の衣服を僅かに汚すこともできない。彼は依然、球形の絶対守護領域下にいる。しかし、意識のリソースは確かに奪われていく。
落ちてくる黒い雲海の先に、四恩は空を見た。そして、空を切り裂く無人攻撃機の姿を見た。
〈《137》から借りたんだ。空を飛んでみたくてね〉
三縁の夢が叶って何よりだと、四恩は思った。それだけでも価値がある。そして彼女が空を飛ぶ時が来た。
〈太陽砲〉四宮四恩は光を感覚する能力者だった。奥崎が膨大な量の飛来物を処理することに忙殺されている間に、彼女は宇宙の空へと飛んだ。もしかすると、これが〈バーストゾーン〉だろうか。〈バーストゾーン〉は何と気持ちが良いのだろう。肉体を捨てて意識そのものになるということは、何と――。彼女はまず太陽を探し、そうして太陽から伸びる光線を辿り、青い星を見つけた。地球は青かった――。日本列島はすぐに見つかった。飯能を探す。〈137〉の基地が見えた。飯能を基準点に府中へ。府中の〈活躍の園〉へ。屋根が今まさに爆発炎上中の白亜の塔がある。吹き抜けの底にまで落ちていく光子に身を委ねていると、途中階で奥崎の姿を見つけた。
「奥崎くん、みつ、けた――」
「今度はすぐに見つけてくれたんだね」
「ん――」
〈活躍の園〉を空爆した全ての目が1つの目へと集合した。それは人類がまだ作ったこともない、そして今後も作り得ないであろう大きさのレンズだ。レンズの周囲には暗黒が拡がっていた。光吸収率が限りなく100%に近づいている。やがて黒と白のコントラストが限界に到達すると、目の中心から光の柱が生成された。
奥崎は光の柱を感覚している様子はなかった。ましてや、その中に自分がいることなど。そんなことを感覚する時間は彼には与えられなかった。彼の脳内で神経細胞が電気的コミュニケーションを取るのに必要な時間は、光の速度に比べれば、あまりにも遅すぎた。
まず奥崎の下半身が熱波で蒸発した。最強の〈高度身体拡張者〉だからこそ、それだけで済んだのだ。だがこれで絶対守護領域はもう、完全に台無しになった。熱エネルギーが空気を爆弾に変えた時には、彼を守るものは何もなかった。彼は身体の前半分の皮膚を全て失ってから、壁に叩きつけられた。爆風はまだ力を持て余しており、さらに彼を吹き抜けの底へと放り投げた。
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