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手に持ったグラスを揺らす。それは催眠術師の手付きだ。
磐音の頭は完全に覚醒していた。どんな術も受け付けはしない。しかし、少なくとも3人の護衛が彼の近くにいるはずだった。彼と同様に、彼女もまたコミュニケーションを必要としていた。彼女は「わたくしが、鳥栖博士に?」と言いながら、彼に近づいた。
「そう、君が鳥栖博士になる。その政治的に敗北した身体で何処まで行けると思っているのかね? 一体、君の身体の維持費は幾らになる?」
「考えたこともありませんわ。だって、考えても、わたくしにはどうしようもないもの」
「正しいね。実際、その費用は〈高度身体拡張者〉を上回るだろう。彼等の〈調整〉のための設備は彼等が多数であるがゆえにスケールすることができるが、君のそれはただ君1人のための、オーダーメイドな設備を必要としている。君は本当に汎用性が低くて効率の悪い、どうしようもない機械だ」
鳥栖二郎の顔に貼り付いたチェシャ猫の仮面が陰影を深めていく。頬の肉が裂けているのではないかと磐音は一瞬、錯覚した。
「四宮さんとの間で、そのことが決定的な対立になるだろう。彼女が彼女自身を生かすためのスポンサーを容易に見つけることができる一方で、君や東堂さんはそうはいかない」
「鳥栖二郎のスポンサーはどなた?」
「私は資本主義の神だ。神にスポンサーなど必要ない」
思わず吹き出しそうになったが、磐音はこらえた。それどころか、自称神の手からグラスを取って、ウイスキーを飲みさえした。この程度のアルコールでは彼女に刹那の酩酊さえ与えることはない。
「おじさんにはなりたくないですわ」
「整形は必ずしも鳥栖二郎の必要条件ではない。女性の鳥栖二郎は……私の知る限りはいないが、今から作ればいい」
「あら、整形なの、これ?」
鳥栖二郎は返事をしなかった。磐音の指先が彼の耳の手前に突き刺さっていたからだった。〈獣化〉の被験者である彼女の指先では急速に成長した爪が刃のように伸びており、そして、その爪がついに彼の側頭骨にまで届いた。彼女の目的は側頭骨を掻くことではなかった。軌道修正。彼女の目的は彼の顔面の皮膚を剥ぐこと。こそぎ落とすこと。彼女の爪は汎用性が高くて効率の良い機械のように機能した。皮膚と皮下にあるものを正確に区別した。
鳥栖二郎は顔面の皮膚を喪失した。代わりに、彼は紅の仮面を付けた。筋繊維と血管と僅かの脂肪とチェシャ猫のような巨大な瞳で構成された仮面だった。実に一瞬の出来事だった。彼が激痛のために叫び声とも笑い声ともつかぬ声を出したのは、ようやく、彼の顔中の筋肉が一度大きく痙攣した後だった。目玉が飛び出るのではないかと磐音は思った。
あひいひひひあひひひあいひひいあいひいひあいひひひいいいひひっひいいいひあひひひひいあいいいいひひいいいいあいひいいひいひいいい――!
痙攣はやがて全身に波及した。ところで、カウンターの向こう側でビールを飲んでいた男は全身を硬直させていた。時が止まったかのように。
磐音にはまだやることが残っていた。鳥栖二郎が椅子から崩れ落ちる前に、磐音は鳥栖の手首を掴んだ。彼の両の手のひらをテーブルの上で重ねる。そのまま鋭い爪で彼の十本の指を一度に引き裂いた。
顔面と両手の指を失った鳥栖二郎がいよいよ床に倒れた。
「はははははははははははははは――! なるほどこれはコロンブスの卵だ! 君は天才だ! はははははははははははは――! ああ! 子どもを敵に回したのが私の間違いだった! あひゃああああ――! 残酷さの応酬で子どもに勝てるはずがなかった! あひあひあひあひあひあひ」
「なんか凄いことになってるね……」
鳥栖二郎を見下ろしていた磐音の横に、背広を着た男が立っていた。
「靴を脱がなければ良かった……」
シャツの第一ボタンを外し、ネクタイを緩めている他は全くの都市賃金労働者に求められる平均的な格好をしている。靴まで脱いでいる。まるで鳥栖二郎に呼ばれた友人か何かのようにも見える。実際、バーカウンターの後ろ、もうビールを瓶から直接飲んでいる男にはそう見えているのかも知れなかった。そのことがおかしくて、磐音は少しだけ笑ってしまった。
「脱がないでって、言いましたよね、わたくし」
「言った。言われた。でもなんか抵抗があって……」
「玄関に靴なんかなかったでしょう」
2人が鳥栖二郎を見下ろしながら会話を続けていると、後ろから甲高い声で割り込まれた。悲鳴にも近似した声音、声量。
「何でこいつの顔を剥がして指を切断した? この状況でも冷静に話しているお前は誰だ? まだ護衛が3人はいるはずだがそれはどうする?」
「石嶺、きみ、
「少し前に協力を取り付けたばかりで」
「あ、そう……まあ、いいけど……ええと、僕、私は
「人間の皮膚の下を見てから?」
「うん……興味あるね……レオナルド・ダ・ヴィンチも解剖学者だった……」
「まだ絵は続けていらっしゃいますの?」
「あれが本業、これが副業……」
んげぇえええええええええええええええ――。
キッチンに向かって、男がビールを吐き出した。磐音は彼の口から流れ出る白い泡だらけの滝の中に、彼の朝食を見たような気がした。
「
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