3-2-17-1 子午線上の綱渡り
広々とした玄関だった。靴が一つも置かれていないということもある。靴がないからにはケア用品もない。石嶺磐音は自宅の玄関を想起する。ロングブーツが特に場所を取る。
ブーツを脱ぐか一瞬、悩んだ。目の前の男が土足で廊下へと上がるのを見た。彼女もまた、土足で上がることにする。どのみち、衛生的配慮も文化的敬意も必要のない人間の住居だ。
廊下は養生シートを貼り付けられたままだった。塩化ビニール製。緑色のテープ。何かの罠かとも思った。けれども、何の罠だったら自分を傷つけることができるのか、磐音にはわからなかった。指向性の対戦車地雷なら、あるいは。そして時間は彼女の敵のままだった。床とビニールを踏む音を立てながら、彼女は廊下を進んだ。対戦車地雷が待っていても構わないと思った。
「私に対する忠誠心といったものは微塵もないのかね?」
リビングにはバーカウンターが据え付けられている。鳥栖二郎が、既に1人で席に着いている。片手にカクテルグラス。黄金色の液体が中で揺れている。カウンターに日本中の何処でも見ることのできる、大衆向けのウイスキーのボトルが置いてある。ラベルでは三頭身のデフォルメキャラクターがグラスを持ち、歯をむき出しにして笑っていた。
鳥栖の顔の表面にも満面の笑みが貼り付いている。顔の筋肉の機能なのか磐音には自信がない。貼り付いていると言ったほうが正しい気がする。それは、まるで仮面だ。『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫が浮かべていた表情だ。既視感があった。磐音は彼の顔の印象と四宮四恩の顔の印象が同じであることに気づいた。彼女はこんな、頬の肉が裂けたように見える笑い方はしなかった。それでも、二人とも顔の造形の背後に制作者の影が見え隠れしている点で、似ているという印象があった。
「金を貰った瞬間、俺は傭兵になった。労使関係に忠誠心の入り込む余地はない。契約があるだけだ」
「では契約の履行に着手したまえ。彼女を排除しろ」
「前提が変わった。既に内務省特別査察局が動いている」
「それだけじゃあないよ、〈137〉も動いている、〈反粛軍派〉も動いている、〈粛軍派〉も動いている、〈地下物流〉組織も動いている、地球も動いている、太陽も動いている。万物は動いている」
「一生な、そうして韜晦してろ、お前は」
磐音をここまで連れてきて男は、カウンターの裏側に回った。冷えたグラスを取り出し、自分でビールを注ぎ始めた。労使関係にはアルコールの入り込む余地はあるらしい。
「石嶺磐音さん、だね。どうだろう、君、鳥栖二郎になりたくはないか?」
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