3-2-16-9

 挟撃。剣のように鋭い牙の数々を間近に見る。表面が歯茎から流れ出た液体で濡れている。輝いている。粉塵を浴びつつある自分の反射を見た。見て、蹴り上げた。まだ〈還相〉による再構築が進行していない頭部が、ボールのように天井へ打ち上がる。

 ああああああああああああいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいああああああああ――。

 ステップ。粉塵と眼の前の敵から距離を取る。服が汚れなくて良かった、と四恩は思う。代わりに、三縁の金属の身体が瓦礫を浴びる。チェーンガンが弾丸を撒き散らし、壁を壊して現れた敵を再び壁の向こうへと隠した。

〈四恩ちゃん〉

〈なに――?〉

 社会福祉を廃止した国の社会福祉施設である〈活躍の園〉は、膨大な数の収容者に経済的で最低限度の生活を維持するためのインフラを備えていた。少なくとも水と粒状完全食〈ソイレント・ホワイト〉は、最上階にまで運搬する必要があった。

〈呼んだだけ〉

〈ん――〉

 そのため白亜の塔の内部に車両が通行可能なほどの巨大な通路を備えている。それは円柱の最外縁に沿って伸びている。なだらかな傾斜の先に、吹き抜けの最下層にいる収容者へ「餌」を投下するための設備がある。末期資本主義のテクノロジーに興味はあったが、今は見物している時間がない。

 三縁がスマートレティーナ上に描画したライトブルーの点線が、通路の真ん中から壁際へと折れた。巨大な扉が四恩を待っている。

 三縁の金属の身体がさらに現れて、四恩に追いつき、そして追い越す。四恩と扉の間に割り込む。と同時に扉が2つに分かれた。

 ああああああああいいいいいいあいあいアイアイアイああああああああああイイイあいあいあいあいあいいいいあいあいあいあい――。

 さらにまた〈バーストゾーン〉に移行した〈身体拡張者〉が姿を見せた。頭部が隆起した両肩の肉の間に隠れている。脳を隠すには肉の中。〈還相〉の独創的で合理的な判断の産物。

 四恩の眼前、多脚戦車と牛に見えなくもない生き物が激突した。靴下の切れ端がめり込む太い脚が金属の塊を押し返そうとする。多脚戦車の多脚の全てが悲鳴をあげる。

 きぃいいいいいいいいいい――。

 脚と脚の間から無限軌道が降りた。その駆動が、今度こそ全身の皮膚を剥がされた牛のような姿の生き物との力比べに決着をつけた。

 四恩は戦車の後を付いていく。慌てず。ゆっくりと。彼女は三縁を完全に信頼している。三縁は〈身体拡張者〉の対応で忙しい。彼が牛を金網にまで追い詰める。そして彼らがついに金網ごと落下する。かくして彼女は白亜の塔の中心部を貫く巨大な吹き抜けを、見た。

 意識の地平面が遥か後方から、四恩の遥か前方にまで拡がった。フラッシュバック。建築物こそ、人類史初の外部記憶装置だ。千の記憶が炸裂する。身体拡張の術前と術後に、ここと全く同じ構造の場所へ連れてこられた。吹き抜けの底で死を待つ人々を見るように命じられたのだった。声さえも、再び、聞いた。

「よく見なさい。〈高度身体拡張者〉にならなければ、国庫の寄生虫に過ぎない君と彼らの間には何の隔たりもない。我々の庇護がなければ、君もあそこに置かれることになる。そう、文字通り、置かれることになるのだよ。そうだろう? 君は手足がないのだから」

 チェシャ猫の笑みを顔面に貼り付けた男が車椅子に乗った少女の耳元で話している。大きな声。早口。不快感。四恩は近づいて、少女の顔を見る。吹き抜けの底、深淵を覗く少女の顔は深淵に覗き返されて青ざめている。四恩は少女のことをよく知っている。彼女の名は四宮四恩。先天性四肢障害児。親に捨てられた子ども。

「よく見なさい。〈高度身体拡張者〉になった君には、彼らとの間に隔たりを感じることができるはずだよ。君は国家に庇護され、安全なところにいる。他方、彼らには恥辱と汚辱と屈辱とが与えられる。彼らは生まれてきたことを後悔する。彼らは隣に立つ人間を文字通りに喰う。しかし勘違いしてはいけないよ。その隔たりは、我々が――我々が! いつでも取り去ることのできるものだ。力を持たざる者にとって安全は、自由とトレード・オフ関係のあるのさ。そのことを、絶対に、忘れるな。いいか! 雌の餓鬼である君は! そのことを! 絶対に! 忘れるな」

 貫頭衣を着た少女の耳元で男が怒鳴っている。収容者の「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」というソイレント・ホワイトを要求する声があまりにも大きいからだ。男は声を張り上げながらも、なお、チェシャ猫の笑みを維持している。ところで、少女は〈身体拡張技術〉によって手に入れた脚で立ち、〈身体拡張技術〉で手に入れた手で金網を掴んでいる。そして唇を震わせている。彼女の声は環境音に対してあまりにも小さい。空気を震わせることができない。しかし四恩には、何と言っているのかがはっきりとわかった。当然だ。彼女は四宮四恩だ。

「奥崎くん――」

 聞き取れたのは四恩だけではなかった。これが彼女の記憶ならば、もう1人いるはずだった。

「四宮さん、大丈夫? 寒い?」

 男と少女が同時に振り返る。四恩も、また。

 彼らの視線は白を基調にした〈137〉の制服を着用した少年に集まった。少年は2本の傘を持っている。

「博士、間もなく放水の時間です。お戻りになるか、傘を」

 彼の清涼感ある声は飢えた人々の絶叫を一撃で打ち払った。

「四宮さん、傘。風邪ひくよ」

 四恩にはもう、彼の声しか聞こえない。そう、それから、彼女は横に立っている男のことを意識して、こう言った。

「高度、身体拡張者は――風邪なんか、ひか、ない――」

 けれども彼はこう言った。安全と引き換えに自由を引き渡してなどいなかった彼は、こう、言った。

「もちろん。でも魂は別だよ。魂は風邪をひく」

〈彼が来たよ。おかしいな。もう出てくるなんて〉

 深淵での戦闘は金属の蜘蛛が〈身体拡張者〉の頭部にマニピュレーターを突き刺して、遠い昔に終結していた。

〈四恩ちゃん、どうする? 撤退する?〉

 つまり、四恩の戦いはここから、ということ。

〈撤退などありえません〉と、武野の通信への割り込み。

〈この今、この瞬間に彼を捕まえない限り、もう機会は永遠に失われることになる。後は無限に後退することになるだけだ。彼が〈地下金庫〉の防衛に成功したという情報が私達の敗北を決定的なものにする。私は今一度失脚し、四宮さん達を守ることができなくなる〉

〈君は黙っていてくれよ。四恩ちゃんが考えることだ〉

 ナナフシは正しい――撤退など、ありえない。

「四宮さん、傘を。もう少しで放水の時間だ」

 あの日、あの時と同じく、傘を持った奥崎が四恩の背後に立っていた。現在の過去ではなく、現在の現在そのものとして。昔と違うのは、彼もまた、チェシャ猫の笑みを浮かべているということ。

「お――」

 奥崎くん、と言いかける。

 電子的に合成された声が告げる――まぁあああもなくううううう放水! 放水の時間です。

「奥崎、謙一――」

 奥崎くん、という言葉の代わりに吐き出した。

 半壊した放送設備の音は割れている――放水開始10秒前ええええええええ。

 10。

「内乱の予備陰謀――」

 9。

「外国に対し私的に戦争する目的の予備陰謀――」

 8。

「その他の容疑で貴方を逮捕する――」

 7。

「逮捕? あははっ。逮捕。四宮さん、それはできない。『国家ぐるみの場合は犯罪にならんぞい!』 あははっ。『国家ぐるみの場合は犯罪にならんぞい!』 あははっ」

 6。

「この国の、一体どれだけの数の権力者が僕の存在を隠蔽したがっていると思う? どれだけの数の権力者が〈地下物流〉の利益を貪ったと思う?」

 5。

「これは、ただの軍内部の内乱に過ぎない。〈地下物流〉の利益を〈粛軍派〉と〈反粛軍派〉と〈137〉と〈鳥栖二郎〉の誰が独占するのか……」

 4。

「でも誰が独占しようと金庫番は必要だ。需要がある! 僕には需要があるんだ! 逮捕なんてできない」

 3。

「四宮さん、僕と一緒にいれば安心だよ。僕なら君を守れる。この通り、傘だって持ってきた。気が利くだろう? 機械の身体の彼に、こんなことできる?」

 2。

「でも――貴方は、わたしを、恐れて、いる――」

 1。

「僕が、君を?」

――放水開始。

「ん――」

 奥崎が傘をさす。水の塊が弾けていく。

 四恩に傘はない。水の塊を浴びていく。

 見つめ合う、二人。

「惨めだな。哀れみさえ覚えるよ。捨てられた犬のようじゃないか。ああ、いや、君は捨てられた犬そのものだった」

「牙をなくした犬よりは、いい――」

 人工の降雨の量が徐々に減っていく。

 最後の一滴が四恩の右のエナメル靴の爪先を打った。

――戦闘開始。



                              3-2-16 おわり

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