3-2-15-1 定散諸機格別の自力の三心ひるがえし如来利他の信心に通入せんとねがうべし

 ドル紙幣と人民元紙幣が敷き詰められた床で、奥崎謙一は横になっている。彼の頭に高さを与えているのは、ユーロ紙幣の束だ。そこは資本主義の夢を見るために作られたベッドだ。彼の指先は胸の上で金のインゴットを掴んでいる。

〈夢が終わる。現実が始まる〉

 スマートレティーナが実現する視界の第二層が、瞼の裏に映像を投写する。「Sound Only」の文字列が暗黒の中でブルーに光り、奥崎に覚醒を促した。

「現実?」

〈労働の時間だ。君は金庫番として、そこにいるのだから〉

 鳥栖二郎の声が諭すように答えた。

「『そうしない方が好ましいのですがI would prefer not to.』」

 目を開く。こすりながら、立ち上がる。欠伸をした彼を、視界に重ねて表示されたフローティングウィンドウが取り囲んだ。いずれも、彼の頭上、〈活躍の園〉で起きている事態を映像として表示していた。彼の怠惰を責めるために。

〈我々が望むのは闘争領域の拡大であって平和ではないはずだよ〉

 白亜の塔が並んでいた敷地は、今や海の向こう、何処かの開発途上国の内戦跡と化している。炎と煙が高層建築物を遥か高みから撫でている。

 警備は最早、機能していない。秩序は死んだ。混沌が産声を上げた。黒の集団と赤の集団があらゆる場所、あらゆる瞬間に、殺し合っている。

 黒の集団――タクティカルベストと野球帽だけで服装を統一した、警備兵たち。赤の集団――貫頭衣を鮮血で染め上げた、〈活躍の園〉の収容者たち。装備の非対称性は数の非対称性を覆すほどのものではなかった。既にかなりの数の収容者たちが自動小銃や車両を獲得しつつある。中には、服を奪い取ってその場で着替えている者もいる。

 次々と施設から飛び出してくる収容者たちを機関銃で薙ぎ払う警備兵たちを横合いから殴るようにして別の収容者たちの一群が襲いかかる。それは赤い波浪だ。赤い土石流だ。その奔流に警備兵たちこそが薙ぎ払われ、組み伏せられる。次々と上にのしかかられ、内臓が破裂し、絶叫し、絶命する。逃走を選択した者も直ちに、この戦場には正解の選択肢などないと悟らされる。彼の足を誰かが掴んでいる。彼は地面に転がり、彼の自動小銃を欲しがる者によって腕ごと自動小銃を奪われる。

 うひえおおおおおおおおおおおおおおお――。

 黒と赤の戦闘を腹這いになって見ていた、まだ白に近い貫頭衣を着た収容者たちが、増えていく仲間と武装に鬨の声を上げた。それは、自分の現在位置を正確に周囲へと報せる行為に他ならない。彼らのすぐ近くにあった燃え上がる白亜の塔の中程、割れた窓硝子の隙間から狙撃銃が顔を覗かせ、鋼鉄の死を彼らに配った。

 ぱひんぱひんぱひんぱひんぱひんぱひんぱひん――。

 死の分配者もまた死を分配すると同時に自分の位置情報を、飢えた敵対者に配っている。勿論、傭兵であるところの彼はそれを弁えている。彼は窓から離れる。だが弁えていることと生き残ることは同義ではない。瞬きの間に、手に入れたばかりの自動小銃を使いたがっている収容者たちが彼のいる白亜の塔へ入っていく。ブービートラップが炸裂し、何人かが入口で死んだが、死の河の流れは小石を投げ込んでも止まらない。

「対テロ戦争の要諦は――!」

 せんめぇつあるのみィィィィィィィィィィィ――!

〈活躍の園〉の正門では白装束の少女たちが集結していた。〈137〉の高度身体拡張者の少女たちだ。背の高い、長い髪を後ろで1つにまとめた少女が全員の前に立ち、声をあげている。拳を上げ下げまでしていた。

「対テロ戦争の要諦は――!」

 せんめぇつあるのみィィィィィィィィィィィ――!

「対テロ戦争の要諦は――!」

 せんめぇつあるのみィィィィィィィィィィィ――!

 聴衆がちょうど3度応じると、まずは全員の前に出て立っていた少女が風とともにその場から去った。続けて、巨大な嵐を巻き起こしながら、少女たちが次々と消えていく。〈137〉の少女たちの、それが、出陣式だった。国内で治安活動に従事する高度身体拡張者たちは、国外に派遣される者たちとはまた別の文化を構築していたようだった。

〈《137》の本格的な介入も始まった。奥崎くん、君はそこをアレッポにしなさい。戦争を操作することができるという思い上がりを叩き潰せ。以上〉

 フローティングウィンドウが泡となって消滅。背後に隠されていた視界が前景化する。

 黄金の山の向こうに、白装束の少女たちがいる。札束を頭上に放り投げたり、真珠のネックレスを首にかけたり、帽子の代わりにティアラを被ったりしながら、〈地下金庫〉内を歩いている。

「奥崎ィ――!」

 少女の1人が叫んだ。彼女は両手で純金製のブレスレットの塊を解きほぐし、自分の腕に1つずつ嵌めていた。

「投降しろ。夢の時間は終わった。現実の時間の始まりだ」

「『そうしない方が好ましいのですがI would prefer not to.』」

 言ったと同時、彼の背後に別の少女が立っていた。彼女は音を消し去る能力か何かを持っているらしい。とはいえ、奥崎には全くどうでもよいことだった。彼女が拳銃を構えたこと、彼女がその銃口を彼の後頭部に向けたことも、また。

 彼女はゼロ距離射撃を望み、奥崎の頭髪の中にフロントサイトまで沈めようとする。だが彼女の身体と、彼女の身体の延長であるはずの拳銃を、もう、彼女は操作できない。彼女そのものが既に奥崎の支配下にあったのだから。

 にげてにげてにげてにげえええええええ――!

 意識と身体の相克が彼女を叫ばせる。常ならざる感覚に、既に彼女はこれから起きることの予期を完了している。

 身体を思い通りに操作している感覚こそが虚偽だとすれば、仲間の絶叫を聞いたとして、誰が直ちに反応できるだろう。そして、それは実際に虚偽だ。意識と身体は別のシステムなのだ。彼が新しい玩具で遊ぶには十分なだけの時間、少女たちは動作を停止した。彼女はにげてにげてにげてと叫びながら、彼に向けていた銃口を仲間たちに向けたのだった。運動神経内部の電気信号を操作できる彼には、造作も無いことだった。造作もなく、少女たちは仲間に撃たれた。

 幾人かは額から後頭部にかけて銃弾が縦断したために、各国通貨の絨毯の上に倒れた。

 また幾人かは、放たれた銃弾を視認してから避けた。

 そして幾人かは、額の前でまだ回転する銃弾を手で掴み取った。

 少女たちが各国の政治指導者の顔を紅に染め上げ、床に片膝をついて奥崎に接近するための予備動作に入り、掴み取った銃弾を彼に向けて投擲した時、彼は既に自分の能力が可能にした、あの電子の海のイメージの中に膝まで浸かっていた。

 奥崎は、彼の身体を構成する分子の、彼の身体を包む洋服の分子の、彼の靴と床を構成する分子の、床の上に乗る少女たちの靴の分子と、少女たちの靴に包まれた脚先の分子と、少女たちの生きて帰りたいという秘めやかな欲動を構成する脳の分子の、結合と無限に近く微小な分離を可能にする電気の流れをたっぷりと味わった。

 あああああああああああいいいいいいいいいいいいあいあいあいいあいあいいあいあいいいいいいいいいいああああああああああああいあいあいあいあいあいあい――!

 イラクとシリアの砂漠地帯で何度も聞いた、バーストゾーンに入った身体拡張者の雄叫びを奥崎は聞いた。幻聴ではなかった。

 それは彼自身の喉を引き裂きながら出てきた声だった。

 彼の両の目を目指していた銃弾が、燃え上がった。殺戮の号砲としての炎。少女たちが次々と燃え上がっていく。彼との距離に正確に対応した順番で。

 ああああああああああああいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいいいいいいいいいい――!

 スプリンクラーが作動し、水を撒き散らす。彼は不可視の傘を頭上に拡げながら、〈地下金庫〉の出入口へ向かっていく。

「絶対にここから出さないで!」

 燃え上がる先輩の、後輩の、同輩の間を抜けながら、次々と白装束の少女たちが姿を見せる。まるで死に急ぐ鯨のようだ、と奥崎は思う。

「ここで戦う! ここを戦場にする!」

 長い髪を後頭部で1つにまとめた少女が右手をあげて真っ直ぐ頭上を指差している。その後にどんな動作があるのか、奥崎には予期できなかった。恐らくは何らかの能力を発動するための、予備動作だ。高度身体拡張者によっては――認識能力が拡張されているという事実を受け入れられない個体によっては、そういう儀式が必要な場合がある。

 彼女の判断は正しい。彼女たちはここを戦場にするべきである。もしもここでなければ、彼は、一個の剥き出しの原子炉となって、中性子線をばら撒くことができる。そこで生き残れるのは、四宮四恩だけだろう。

 いよいよ、彼女の腕が振り降ろされた。指は、今、彼女の頭上ではなく、奥崎を指していた。刹那の間もなく、何らかの力が実現するのだろう。それは奥崎を対象としているのだろう。予期はできなかった。ただ、予感は、あった。予感は歓喜を喚起した。

 ああああああああああああいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいぃぃぃぃ――!

 視界が歪む。超大な直方体であるはずの〈地下金庫〉が螺旋のトンネルとなった。

 いや――前後関係を、因果関係を誤認している。

〈地下金庫〉が螺旋のトンネルとなったことを否認する意識が、視界を歪ませたのだった。

 彼女の能力は重力操作だ。奥崎は確信した。素粒子物理学が死物狂いで探している重力子を、彼女は、目で見て、手で触り、味わっているのだろう。彼女は彼が戦うに値する高度身体拡張者だ。

 視界が正常に戻ると同時に、巨大な見えざる手が頭上から彼を叩いた。重力と恩寵。地球上ではありえない高重力環境が、彼の周囲でのみ、現象していた。重力と恩寵。続いて、〈地下金庫〉の貯蔵品が彼へと殺到する。金と銀とプラチナが彼を圧して、潰す。重力と恩寵。

 ああああああああああああいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあいあい――!

 高度身体拡張の本質は認識能力の拡張であることを、奥崎は正確に理解していた。だから彼はまずは見た。彼がその中を動く、電子の海の表面を。それは常に波打っているが、その波は乱れることにおいて、彼と同様に海の中にいる者たちの姿を描き出す。電子の力によって、かろうじて存在者足り得ている者たちの、儚い姿。後は、触れるだけだ。遠くの物に触れることも、ここでは難しいことではない。空気を介して誰もが呼気を交換しているように、この海は力の伝播を可能にしている。

 重力を操作する彼女にとって、地面から浮き上がるという事態はそれほど特異なことでもないようだった。他の者なら一様に見せる反応――手足を振って、地面と足の接着を回復しようとする――が彼女にはなかった。それでも、驚いていることは間違いがなかった。なんで! と彼女は言った。重力場と電磁波は違うものなんだよ、と彼は言った。彼女には聞こえていないようだった。

 見えざる手が彼を抑え込む力が消えた。今度は彼が、彼の見えざる手を左右に動かす番だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る